沖縄

August 10, 2011

08/14/11¥シナの侵略から靖國・沖縄・日本を護る国民大集会・東京

■シナの侵略から靖國・沖縄・日本を護る国民大集会 第二弾
 〜数次ビザで沖縄から堤防が崩れる!シナ人の洪水だ!〜

----------------------------------激-----------------------------------------

沖縄の観光振興に名を借りてシナの工作が着々と成就しています。
沖縄経由で日本中が支那の工作員で溢れかえります。
先人が、英霊が護ってきた沖縄が大ピンチ!日本の危機です!
愛国者は立ち上がろう!
支那は、沖縄を日本属国化の第一歩の目標と定め、「日本は琉球の合法主権を持っていない」とまで主張しています。
そもそも明治7年、帝国政府は同じ大和民族でありながら清国の影響を強く受けていた沖縄の民族統一を図るため、台湾出兵を行いました。そして明治12年に沖縄県を設置し、近代国家日本の民族の統一に成功しました。
その台湾出兵にて戦死された英霊は靖國神社に祀られています。
いま、日本は明治維新直後と同じように支那と対峙しなければならない状況です。
今こそ、靖國の英霊の志を学び靖國に相集い 祖国を守りぬく事を共に誓おうではありませんか?
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日時 8月14日(日)午後1時〜午後4時
場所 靖國会館 (東京件 靖國神社境内)
資料代 1000円 事前申込み不要 直接会場にお越しください

<登壇予定者(順不同)>
◎仲村俊子(沖縄防衛協会初代婦人部長)
◎伊藤玲子(建て直そう日本・女性塾 幹事長)
◎村田春樹(自治基本条例に反対する市民の会)
◎その他調整中

<主催> 沖縄県靖國神社参拝団
<共催> 支那の侵略から靖國・沖縄・台湾を護る国民大集会実行委員会
        委員長 村田春樹(090-7055-2500) 事務局 沼山光洋(090-3105-2030)
<協賛> 靖國会 / 維新政党・新風 / 自治基本条例に反対する市民の会
       日本会議宜野湾支部 / 日本会議うるま市部準備室 / そよ風
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昨年の集会の動画を一部紹介させて頂きます。
■昨年の動画
平成22年8月14日 11:00〜13:00 靖国会館
「シナの侵略から靖國・沖縄・台湾・日本を護る国民大集会」
<来賓挨拶:平沼赳夫先生>
http://youtu.be/Ww02ULMpvEA
<開会の挨拶 実行委員長 村田春樹 >
http://youtu.be/63pCHys_WQk
<沖縄からの報告:仲村俊子(2/2)>
http://youtu.be/u90q-Il1IHk


February 17, 2011

自由主義史観研究会藤岡信勝代表からのメッセージです

藤岡信勝です。

 「新しい歴史教科書をつくる会」は、歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の沖縄戦集団自決展示改悪への批判活動を開始します。8日には現地調査団を派遣し、その他のテーマも含め、近現代史の展示全体の問題点を見つけました。本日付けの産経新聞に、下記の記事が載りましたので、紹介します。歴博への申し入れ文書の全文は、つくる会のホームページとFAX通信、および会報「史」に掲載されます。(H23.2.16)

●偏向展示の改善要求 新しい教科書をつくる会が歴博に申し入れ(産経新聞)
2011.2.15 21:37
 沖縄戦の集団自決に関する展示で国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が1月から、「軍人の指示があった」と記述している問題で、新しい歴史教科書をつくる会は15日、展示内容の改善などを求める申し入れ書を同館に提出した。

 同会は8日に同館を訪問し館内の展示全体について調査。その結果、「手りゅう弾の配布に示される軍人の指示など、住民の意思決定を左右する沖縄戦特有のさまざまな要因があった」という沖縄戦の記述について、「この文章では2つのトリックが用いられている。『軍人』という言葉で『軍命令説』はとっていないと弁明できるようにしたことと、『命令』とほぼ同意義の『指示』という言葉を使い、軍命令説を蒸し返したことだ」と指摘した。

 また同会は関東大震災の展示についても偏向を指摘。「(震災時に)朝鮮人が暴動を起こしているというデマが流れた。パニックに陥った日本人が朝鮮人を虐殺した」との同館の解説が、「大地震の混乱に乗じて朝鮮独立運動家たちが暴動を起こしたことは紛れもない事実であり、暴動はすべてデマだという展示は間違い」としている。

 同会の藤岡信勝会長は「歴史博物館と歴史教科書は、歴史を学ぶ際の2大情報源で影響力が大きい。誤った展示を抜本的に改善してほしい」と話している。

February 10, 2011

2月11日・恵隆之介氏講演会・福岡

日時 2月11日 午後2時20分 〜 午後3時50分

場所 福岡国際会議場メインホール

演題 「皇室と沖縄ー沖縄史の真実」

*主題:第三のご英断「沖縄統治関する天皇メモ」
中国国民党、同共産党による沖縄占領計画はこうして
阻止された。   


主催 日本会議福岡
電話番号 092−641−3263

*なお本件は、「平成23年 日本の建国をお祝いする集い」の一環です。
式典は、開会の辞午後1時30分より開始され、終了午後4時25分の予定
です。

January 18, 2011

1月22日・日本の安全保障を考える姫路市民の会

沖縄の恵隆之介さんからの情報です

仲井間沖縄県知事は昨日、北京よりようやく帰任しました。
14日の「尖閣開拓の日」に香港に向け出発(16日、香港経由北京入り)、石垣市における式
典には知事の祝電もなければ県議会議長も欠席、14日、那覇空港でインタビューを受けて知事は、
「東シナ海の件は問題ない沖縄と中国とはもっと深い関係だ・・」言ってのけた。
北京のメデアは早速、石垣市の行為を「侵略行為医」と批判した。知事の「深い関係とは一体に
なにか・・・」?
本件もふくめ、「極東の安全を壊す沖縄」について以下の講演会を実施致します。

ご参加頂ければ幸甚です。


演題:日本の安全保障を考える(沖縄問題の真相)
講師:恵隆之介
場所:姫路労働会館(3階 多目的室)

日時:1月22日(土曜日) 13:30開場 14:00開演(16:00時まで)

主催: 日本の安全保障を考える姫路市民の会

入場料:500円

*会場にて「尖閣諸島をはじめとするわが領土領海を守るための誓願書」への署名活動を行い
ます。



恵 隆之介拝

November 08, 2010

漁民曰く、「ていたらく!」 八重山毎日新聞の記事を転載します

中国漁船の領海侵犯衝突テロ事件は
漁業関係者に衝撃を与えたようです
以下、尖閣諸島のある
沖縄県石垣市にある『八重山毎日新聞』の記事です
政府の弱腰が呼び込んだ外圧は
国民生活を脅かすところまできています
【怪童】

2010年11月6日
尖閣諸島問題、漁業者に驚きと不安 中国漁船の衝突ビデオ流出
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 尖閣諸島沖中国漁船衝突事件で海保が撮影したとみられる映像が流出した問題に漁業者からは驚きと不安、怒りが交錯した。
 一本釣り漁業の比嘉幸秀さんは「ビデオを見てびっくり。2隻以外の漁船も映っていた」と中国漁船の実態に驚き、「これでは海保も(取り締まりに)大変だ」と警備強化の必要性を強く感じた。ビデオの一部を見た衆院議員の対応に元組合長の比嘉康雅さんは「ていたらく」と切り捨てた。
 県漁連の上原光雄漁政課長は「本物かどうか分からないが、衝突した映像には衝撃と不安を感じている」とショックを隠せない様子。毎年12月中旬から尖閣諸島沖で、カツオの一本釣り漁を行っている伊良部漁協の下里猛参事は「ある程度は予想通りの中身だが、漁をする人としては(中国側の反応が)怖い」と不安を漏らした。
 一方、衝突映像から中国漁船が操舵になれているとの見方も浮上した。マグロ延縄漁の仲田吉一さんは「自分の船の能力をわかった上でぶつかっている。被害のないように当たっている。訓練されているのではないか」と語った。
 中国漁船が並走しながら巡視船に衝突した様子について比嘉さんは「波の影響で並走していればぶつからない。スピードを緩めて船尾のほうに行き、わざとぶつかっている」と分析した。

October 25, 2010

沖縄最前線からの報告

多忙のためなかなか更新できず
失礼いたしました

沖縄で精力的に活動されている
恵隆之介さんからのご報告です



尖閣諸島事件は
中国漁船による衝突事件と報じられますが
海保に対するテロ事件だではなかったでしょうか
最前線の住民の不安を
マスコミが隠蔽しています
本来ならば、自衛隊駐留・増強
米軍の価値の見直しなど
起こってもよさそうなものを
左翼とぐるになって
沖縄がそれでも反米だと見せかけています

恵さんのレポートは
最前線の状況を
如実に教えてくれています

【怪童】

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各位

昨晩、宮古島で「沖縄の危機」と言う演題で講演をしてきました。防衛協会や現職自衛官をはじめ、老若男女多数が集まって下さいました(共産党の方も)。不安におののく民衆の顔を見ますと涙が止まりせんでした。

尖閣事件以降、知事はこの地域を一度も訪れず、民衆は閉ざされた情報空間の中で不安におののいているのです。

一方左翼勢力や日共は、活動家を本土から陸続とこの地に送り、「沖縄戦に見られるように軍は県民を守らない、自衛隊を誘致すれば、その背後から米軍が来る、その結果は、婦女暴行、ひき逃げ、騒音の三悪が来る」と喧伝しているのです。

私は冒頭、海の武士道のDVDを上映し、その後、米国民政府が戦前から沖縄に蔓延しておりました種々の感染症を撲滅するためいかなる努力をしたかを1960年代の新聞資料を引き合いに出して説明し、さらに琉球王国がとった共産主義体制がいかなるデメリットを住民に与えたか強調して来ました。

感動しましたのは、地元小学校の先生が最後まで聴講され、私が今朝、宮古島を発つ寸前に、「月曜日の授業で、工藤艦長の善行を生徒指導に早速使用します」と連絡がありました。地元の方の話では沖教組に敢然と立ち向かう有名な先生だそうです。

講演終了後、地元青年男女が集い、遅くまで憂国の談義をしておりました。兎に角今の沖縄は有事型のリーダーを欲していると言う実感を致しました。

少し大袈裟かも知れませんが、特攻隊のパイロット達が、「国民のため命を賭ける」と敢然と出撃されたその心境が痛い程解りました。

宮古海峡と下地島空港は、第一列島線の中でも戦略拠点なのです。今後中国とそれに相乗りする日本左翼の策動は執拗に展開されると思われますが、どうか日本国民としての矜持を失わず懸命に生きている民衆が居ますことを本土の皆さまは忘れないで下さい。

恵隆之介拝

August 30, 2010

9月2日・恵隆之介氏講演会・京都

沖縄で活躍されている
恵さんからのお知らせです
【怪童】  

下記の日程で 京都で講演を行います。
題目 「沖縄の実態」
日時 9月2日 13時30分
場所 ホテルグランビア京都
主催者 日本会議京都

左翼の皆様もどうぞいらして下さい! きっと欺された沖縄発の情報に気づいて
転向したくなるでしょう。

*最近、沖縄戦直前おける米軍諜報協力者ファイルを発見しました。戦慄するような内容です。「まさかこの男が・・・・」という衝撃を受けました。「帝国陸軍は、県民をスパイ扱いしたからけしからん」というバカ左翼もおりますが、県民にスパイは確実におりました。かなり重要度の高い機密を漏らし、戦後 〜の見返りを享受しているのです。ここが支那なら、小生がコイツの氏名を公表すれば墓は忽ち木っ端微塵に破壊されるでしょう
しかし現在、第2次沖縄戦は既に始まっております。とくに諜報工作戦は熾烈だと思います。中国軍、北鮮、日共、極左等です。

敬白

July 12, 2010

恐るべき沖縄の「精神状態」

産経新聞に短期連載された
「揺らぐ沖縄 すり込まれた反基地」には
恐るべき沖縄の実態が書かれています
追記しておりますので
ぜひご一読ください

ソ連の崩壊によって
行き場を失った反日左翼の
草刈場になってしまった沖縄は
民主党政権によって破壊されていく日本の
最先端を走っているかのようです
もはや「精神錯乱」状態の沖縄を
正常化させるのは容易なことではないでしょうが
多くの人々がその実態を知り
沖縄の人々を正しい言論で
啓蒙していく以外に方法はないでしょう
【怪童】続きを読む

April 15, 2009

沖縄に嵐の予感? であってほしいものです

沖縄で活躍する
恵隆之介さんから
以下のような情報が参りました
産経の左傾化を危惧する声は
いろんなところで聞かれますが
この那覇支局長は本モノのようです
【怪童】
以下、恵さんからの情報です
=======================
 産経新聞の報道姿勢に疑問を呈する意見もあります。小生も岡本行夫のような琵琶
法師に紙面を割く産経に、「アホになったか?」あるいは「公明に寝取られたか」と思っております。
 しかし、今回着任した同那覇支局長前田徹氏は大した男です。
 これまでのユデダコ支局長と違って、着任当初から「沖縄タブーを叩く」公言し、
地元新聞社や、これを煽る全国紙グループに挑戦を宣言し、精力的に批判連載記事を執筆し始めております。
 結果那覇記者クラブから村八分になっております。でも小生は非力ながら支援しま
す。
 手持ちも資料全て提供しようと思っております。皆様からもエールを送ってあげて
下さい!

那覇市泉崎1-10-3
琉球新報ビル内
産経新聞那覇支局
電話:098-861-6778 FAX:098-860-3070  

March 14, 2009

恵隆之介氏、田久保忠衛氏講演会のご案内

沖縄で活躍中の
恵隆之介さんから講演会のご案内です
++++++++++++++++++++++++++++
 日頃のご支援、ご声援誠に感謝申し上げます。 
小生が「だかじんのそこまで言って委員会」で発言しカットされた内容は、下記開
催されます講演会でも細部ご説明申し上げます。
 沖縄に於ける活動は、当初、四面楚歌の様相を呈しておりましたが、お陰様で県
内にも支援者が徐々に増えてきました。
 日本左翼の聖地が沖縄です。その虚言を解明することこそが日本の未来を開くので
す。
 「沖縄戦住民自決冤罪訴訟」最高裁判決を目前にしている現況にあります。恵は、この核心部分を先日、「たかじんのそこまで言って委員会」で発言しましたが、なぜか全文カットされました。
 従って今回のシンポジュームにおいては、あの番組でカットされた部分を中心に発表し、国民大衆をマスコミのマインドコントロールから覚醒致したいと思っております。
 どうかご臨場下さいますよう御願い申し上げます
++++++++++++++++++++++++++++
以下、その講演会の詳細です

「沖縄と共に『自立国家日本』を再建する草の根ネットワーク」発足記念シンポジューム
●開催日:3月28日
●会場:日本青年ホテル中ホール
    新宿区霞ケ丘町7番1号
    電話番号:03-3401-0101
●プログラム
 第一部 シンポジューム 13:00〜15:30
 ・基調講演「日本の命運を握る沖縄情勢」恵隆之介 
 ・特別ゲスト講演「那覇・東京・ワシントン」田久保忠衛
 ・パネルディスカッション〜テーマ「自立国家日本の再建と沖縄」
  パネラー:田久保忠衛、恵隆之介、鈴木正人(埼玉県議)、富原盛哲
 第二部 懇親会 16:00〜17:00
●主催:「沖縄と共に『自立国家日本』を再建する草の根ネットワーク」
 代表 仲村覚さん(050-5021-8105)
●共催:東大OB会・理想国家日本を実現する会

恵さんが本当に話したかったこと
是非聞いてみたいです
【怪童】

January 27, 2009

沖縄に集団自決命令などなかった! 

沖縄で日本軍人が集団自決を住民に強要したという
反日ホラ話のために名誉を傷つけられたと
元軍人とその家族が
反省を知らず、誤謬を認めない
唯我独尊の大江健三郎と岩波書店を相手取って
裁判を起こしていることは
周知のとおりです
大阪高裁は、集団自決命令がなかったことを
事実上認めながらも
大江らが今もなお
原告の名誉を傷つけ続けていることを
否定する奇妙な判決を下しました
もちろん原告は最高裁に訴え
現在、審理が続いています

原告の一人であり
集団自決を共用したと名指しされ
名誉回復を求めている梅沢裕さんが
大阪で講演を行われます

偽沖縄集団自決命令は
偽南京大虐殺
偽慰安婦強制連行と並ぶ
日本人に対する差別三大ホラ話です

日本人の名誉のために
梅沢さんが語られる真実の言葉に
耳を傾けたいと思います
【怪童】
+++++++++++++++++++++++++++++
梅沢裕元座間味島守備隊長(沖縄集団自決訴訟原告)講演会
●日時 平成21年2月1日(日) 15時〜
●会場 たかつガーデン
 〒543-0021 大阪市天王寺区東高津町7番11号
 (近鉄上本町、地下鉄谷町9丁目駅下車)
 電話:06-6768-3911
●運営費 1000円
●主催 一日会

January 19, 2009

またも朝日! 沖縄集団自決の偏向報道に抗議しましょう

去る1月13日に放映された
テレビ朝日「消したい過去 消せない真実 文科省疑惑の教科書検定」は
文科省の沖縄戦「集団自決」に関して
歴史的事実に基づいて行われた教科書検定を
一方的に批判する極めて偏向した内容でした

そもそも消せない過去・消せない事実とは
軍による集団自決命令などなかったということであることは
矛盾に満ちた大阪高裁判決でも
明らかになっています

沖縄で行われた
左翼集団による教科書検定撤回県民大会の参加者数も
実際には2万人もいなかったことが
明らかになっているにも拘らず
主催者の水増しである11万人の数字を
繰り返し報道していました

集団自決者の遺族が
国からの保障を得るために
軍命令があったことにした
消せない過去・真実を無視するなど
事実を報道すべきマスメディアとして
赦される行為ではありません

左翼の主張ばかりを取り上げ
その主張に反する声はなかったかのように報じるテレビ朝日は
売国・反日マスコミの筆頭です

偽沖縄集団自殺命令は
偽南京大虐殺
偽慰安婦強制連行と並ぶ
反日=日本人への人種差別三大ホラ話です

反日の巣窟であり
人種差別主義放送局である
テレビ朝日への抗議をお願いします

電話:03-6406-5555
FAX:03-5425-2440
メール:こちらから
【怪童】

June 30, 2008

偽沖縄集団自殺命令をめぐる「冤罪」裁判控訴審始まる

恐ろしく不当な第一審判決を受けて
梅澤裕さん、赤松秀一さんによる
株式会社岩波書店、大江健三郎を相手取っての
出版差止等請求事件の控訴審が始まりました

6月25日に行われた控訴理由の要旨(口頭陳述)を
追記しています
これをお読みになると
この「冤罪」事件が如何なるものであるか
偽沖縄集団自殺命令という神話の罪が
よくわかると思います

この偽沖縄集団自殺命令は
反日勢力による
偽南京事件
偽慰安婦強制連行とともに
歴史捏造三大詐話の一角をなします
これを崩壊させることで
歴史認識における歪みに
正常化への機運を盛り上げることが可能となります

皆さんで注目しましょう
【怪童】続きを読む

April 02, 2008

沖縄人権屋のダブルスタンダード

沖縄で教え子を連れ込んで
淫行を繰り返していた女教師が逮捕されました
(読売の記事を追記)

男女平等
人権平等

その立場からすれば
これはアメリカ兵が女子中学生に
淫行を行ったことと
全く同じじゃないですか?

それなのに
マスコミはしれっとした報道
米兵の時には大騒ぎしたド左翼は
まるで何もなかったかのような沈黙

この矛盾を
産経や世界日報は
しっかりと報道すべきじゃないですか?

アメリカでは女教師が
男子生徒と関係を持ったことで
刑務所にぶち込まれています
男女平等ですから当然です
淫行に男女の違いはないはず
人種の違いはないはず

このダブルスタンダードを黙認することは
憲法違反ですよ

おかしなことをおかしいと言えない国・日本
いい加減に目を覚まさないと
取り返しのつかないことになりそうです

続きを読む

March 19, 2008

緊急シンポジウム「狙われる沖縄」と日本の前途

新しい歴史教科書をつくる会」による
緊急シンポジウムのご案内です

本ブログでも何度も指摘しているように
偽南京事件
偽慰安婦強制連行
沖縄偽軍命令集団自殺は
反日=日本人への人種差別を
国際的に固定化する為の陰謀
です

ソ連崩壊以降
目標を失った日本の左翼がターゲットにした
日本の歴史と文化を崩壊させる運動が
世間知らずの沖縄人を利用して
そこを根城に展開され
それがその領有権を主張する
中共政府の思惑と一致したのです

つくる会のIさんから寄せられた情報には
下記のような恐るべきものがありました

沖縄を日本から切り離して売り渡します"
沖縄が中国の工作拠点になりつつある!? 中国1等書記官沖縄内乱示唆"
「沖縄の主権帰属は未確定」 中国誌に研究者論文

一方、今年の3月3日付の『世界日報』に
座間味島在住の宮平秀幸さん(78歳)による
軍命令がなかったことを証明する
新証言が載りました
(記事は追記)
沖縄の左翼マスコミ(祖国は中国だと公言する人間さえいるのです!)は
宮平氏との接触を拒否し
歴史捏造には不都合だった
氏の証言を公にすることを許さなかったのです
この言わば憲法に違反する言論封殺が
白昼同道と行われているのが沖縄の実情です

偽集団自殺裁判に敗れることは
沖縄に巣食う売国集団と
中共の犬や工作員にとっても
非常に大きな痛手となります
私たちが沖縄戦の事実を正しく把握し
神話を崩壊させることが
沖縄だけではなく、日本を守る
大きな橋頭堡を築くことになるのです

東京周辺にお住まいの方は
ぜひご参集ください
【怪童】
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★緊急シンポジウム「狙われる沖縄」と日本の前途
平成20年3月29日(土)・18:50
杉並公会堂
櫻井よしこ、田久保忠衛、恵隆之介、高森明勅、藤岡信勝
大江裁判原告代理人松本藤一氏、原告のひとりで座間味島守備隊
長だった梅澤裕氏も参加されます。
詳しくは→こちらから
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
続きを読む

November 09, 2007

「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている」

重い言葉です

今日(9日)に大阪地裁で行われた
沖縄戦での集団自決命令に関する「冤罪訴訟」で
島民に集団自決を迫ったかのように
大江健三郎らの手によって
無実の罪を着せられていた
座間味島の元守備隊長、梅沢裕さんが
法廷で発した言葉です
(産経の記事を追記)

「戦争を知らない人たちが真実をゆがめ続けている」

なんと的を射た表現でしょう
私たちにはゆがめ続けられた真実を
ただす責任があります
それこそが日本を守っている
英霊に答える道だと思います

ノーベル賞が泣くような証言だけは
するなよ大江健三郎!
【怪童】
続きを読む

October 09, 2007

ノーベル・ウソツキ左翼賞作家・大江健三郎出廷決まる

ee4be0ea.jpg『沖縄ノート』(岩波書店)で
軍命令による集団自殺という
虚構を垂れ流し
名誉を毀損したと訴えられている
ノーベル賞受賞・ド左翼作家
大江健三郎が11月9日10時に
大阪地裁に尋問の為に出廷します
傍聴申し込み締め切りは9時半頃とか
どんな言い訳をするか
見ものです

主権回復を目指す会により
裁判所前にて天満警察署の許可を得た上で
ビラ配布が行われますので
有志の方はご参加ください
8時45分に大阪地裁正門前集合です

敵は11万人集まったと針小棒大のウソ八百で景気付け
「9条の会」が支援体制を固めたとの情報です

関西在住の皆さん
よろしくお願いします
【怪童】

October 08, 2007

古館もやっぱり赤いアサヒだった

関西自由主義史観研究会のK氏からの情報です。
10月5日『報道ステーション』で古舘伊知郎が
偽集団自殺に対抗する
県民集会の人数偽造を
擁護する発言をしたとのこと
YouTubeにありますので
削除されないうちにどうぞ

以前に書いたように
この人たちは自分たちが正しいと思ったら
嘘でも何でもかまわない
という思想の持ち主ばかりなのです
真実はどうなのかには
興味がないと言うことが
はっきりわかりますね
人数が問題ないのならば
なぜ人数を報道するのでしょう?

まぁ、要するに
このイカレポンチどもの考えでは
プロパガンダ生産こそが
報道だと言うことでしょう
ソ連では『プラウダ』だけがプラウダ(真実)だったことと
同じ構造です

問題発言については
Kさんが文字起こしをしたものを
追記しています
【怪童】
続きを読む

October 07, 2007

沖縄を知り尽くした恵隆之介氏が語る沖縄の実態

このブログで良くご紹介している
恵隆之介さんが出演している
チャンネル桜へのリンクがあるブログです
こちらからどうぞ
「基地78%は大嘘、沖縄の実態」 ジャーナリスト 恵 隆之介
【怪童】



October 03, 2007

『沖縄タイムズ』の捏造報道に抗議しましょう

「沖縄県民大会」については
主催者側情報で11万人とか12万人とか
報道されていますが
145m×120m、少年用サッカーコート3面しかとれない場所に
そんなに人が集まるわけもなく
先ず、それが嘘であることは明らかです

しかも、県内の中学高校では
生徒たちに教師が動因をかけたということで
今回の偽集団自決命令騒動に
左翼が躍起になっていることがわかります
それにしても恐ろしい話です

さらには
29日に『世界日報』が
『沖縄タイムス』が米軍により殺害された人々の写真を
集団自決の写真だと捏造して報道しています
(記事は追記しています)

沖縄在住の狼魔人さんによれば
「実は最近の沖縄タイムスには見逃してしまうほどの小さな訂正記事がたびたび載るようになっております」とのこと

報道機関の風上にも置けない
ド左翼記者と編集者による
目的の為なら手段をエラばず
歴史を捻じ曲げる行為に対して
抗議をしましょう!

何度も言うようですが
沖縄での歴史捏造は
偽南京事件、偽慰安婦強制連行と
明らかにつながっています

沖縄タイムズ 098-860-3663
     FAX 098-860-3664
【怪童】続きを読む

October 01, 2007

恵隆之介作、沖縄に軍艦旗ひるがえる、「沖縄」 に尽瘁した漢那憲和少将の献身(5)

 ところで、沖縄から兵学校へ入ったのは、漢那、渡名喜についで五十九期の当山全信(とうやまぜんしん)(戦死後中佐)がいる。 ここで、当山についてもふれておく。
 当山も沖縄一中時代、常に首席で特待生であった。
 彼が、渡名喜のあと、九年ぶりに兵学校合格者となったとき、全島が喜びに湧き、特に彼の出身地浦添村では提灯行列が行なわれ、祝宴が三日二晩もつづいて、疲労のため当山の母が卒倒したほどであったという。
 五十九期生として入校するや、学業ばかりでなく、体育も抜群で、柔道は三段、相撲、水泳は最高の特級となった。
 昭和六年、兵学校を卒業し、やがて潜水艦畑に進むようになる。
 潜水艦乗りになってから髭をのばしはじめ、落ち着いていて若い士官とは思えぬ風格があったという。
 寡黙で温厚、沈着、上下のだれかれからも信頼された。
 昭和十六年十一月二十一日、当山は「伊一九潜」に乗り組み、先遣部隊として僚艦とともに横須賀を出てハワイ沖に向かう。
 開戦後はハワイ沖から北米西海岸に進出、翌年二月、七十日ぶりに内地に帰還し、ただちに潜水学校甲種学生となる。潜水艦長となるためのコースである。
 三カ月後、彼は潜水艦長としてふたたび第一線へ。
 やがて当山は、佐世保海軍工廠で建造中の「伊四八潜」の艤装員長となる。
 「伊四八潜」は、水中速力二十四ノットの高速を誇る、いわゆる巡潜丙型の三隻のうちの一隻である。
 昭和十九年九月竣工、約三カ月かかって慣熟訓練を行ない、戦備は完了した。
 レイテ沖海戦で、五隻の潜水艦を失った潜水艦部隊は、十一月に入ると、飛行機による特攻攻撃に呼応して潜水艦による回天攻撃を行なうようになる。
 第一回の回天特別攻撃隊菊水隊につづいて、当山の「伊四八潜」は第二陣の金剛隊としてウルシー泊地を攻撃することになった。
 昭和二十年一月八日、四基の回天を搭載して「伊四八潜」は大津島を出撃する。
 ウルシーは西太平洋で最も大きく、最も重要な敵泊地である。
 先陣の「伊三六潜」が攻撃したあとであるから、敵の防御も一層堅くなっており、「伊四八潜」の攻撃は、始めから至難と思われたが、出撃後、しばらくして案の定、消息を絶ってしまった。
 戦後、『米海軍駆逐艦作戦史』によると、その最後の模様は、つぎのように記されている。
 「伊四八潜」は、二十一日の夜半、ウルシーの西方十八マイルに浮上していたところ、敵哨戒機に発見され、ただちに三隻の駆逐艦が襲ってきた。
 ところが、二十二日終日探し回ったが、「伊四八潜」 は発見されず、二十三日になってようやくレーダーで浮上中の「伊四八潜」を発見した。その直後、「伊四八潜」は潜没したが、米駆逐艦はソナーでこれを探知し、六回にわたってヘッジホッグで攻撃をするが反応はない。また六時間もかけてようやく捕捉し、七回目のヘッジホッグ攻撃をするが、これも失敗してしまう。
 (注、ヘッジホッグというのは、はじめ英海軍が大西洋でドイツのUボートを攻撃するために造られた、艦上からの前投兵器。爆雷を細くしたような弾丸二十四発を、漁のときの網打ちのように飛ばし、数百メートル先でハート型に撒布する。そして一発が命中すると、全部が爆発する。一発でも命中しないと爆発しない。昭和十九年後半から、日本の潜水艦はこれによって何隻も沈められた。日本ではこれは造られなかった)
 そのあと、駆逐艦の一隻が、一斉投射攻撃を行なったところ、海底で大爆発が起こった。
 その爆発のすごさは、駆逐艦内の主計科の重さ七百キロの大金庫が、床から一、二メートルも飛び上がるほどの凄さであったという。
 搭載されていた回天とともに大爆発したものと思われる。
 三十数時間にわたる執拗きわまる攻撃に、いかんともなすすべがなかったのであろう。
 三歳の長男と身重の妻を残して、当山全信は三十五歳の短い生涯をとじた。
 これより前、昭和十七年、漢那にとって最後となる衆議院選の時のことである。
 四月末、離島での遊説を終えた漢那夫妻が、宿泊先の知人宅に着いた途端、夫人が突然、ドサッという鈍い音をたてて倒れた。
 診断は、過労による脳卒中ということであった。数日後、夫人は意識をとりもどしたものの、以後、彼女は半身不随の体となってしまった。
 このときも漢那は最高点で当選したが、半身不随の妻をかかえての政治活動は困難をきわめた。
 しかし、彼は歯をくいしばって頑張り通した。
 昭和二十年四月、米軍は沖縄本島に上陸した。二カ月にわたる死闘の末、六月十四日、小禄にあつた海軍部隊は全滅する。 ふるさと沖縄全土が戦火につつまれた。母はどうしているだろうか。
 六月十五日、米内海相は漢那を招いて沈痛な面持ちで一枚の紙片を渡した。それは、玉砕に先立つ六月六日、沖縄方面根拠地隊司令官太田実少将(41期、戦死後中将)から打たれた次のような訣別の電文であった。
 「沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも、県にはすでに通信力なく、第三十二軍司令部また通信の余力なしと認められるにつき、本職、県知事の依頼を受けたるに非ざれども、現状を看過するに忍びず、これに代わって緊急ご通知申し上ぐ。
 沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍は、方面防衛戦闘に専念し、県民に関してはほとんど顧みるに暇なかりき。
 しかれども、本職の知れる範囲においては、県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが、相つぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身をもって軍の作戦にさしつかえなき場所の小防空壕に避難、なお砲爆撃下行くべき当てもなく、風雨に曝されつつ、乏しき生活に甘んじありたり。しかも若き婦人は、率先軍に身を捧げ、看護炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身切込隊すら申し出るものあり。
 所詮、敵来りなば、老人子供は殺さるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生別し、娘を軍衛門に捨つる親あり。
 看護婦にいたっては、軍移動に際し、衛生兵すでに出発し、身寄りなき重傷兵を助けてその看護に専念せり。まことに真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思われず。
 さらに、軍において作戦の大転換あるや、自給自足、夜のうち遥かに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。
 これを要するに、陸海軍、沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物資節約を強要せられてもなお、奉公の真心を胸に抱きつつ、ついに何ら報いられることなくして本戦闘の末期となり、沖縄島の実情形容を絶する有様にて、やがて一木一草焦土と化せん。糧食六月一杯を支うるのみなりという。
 沖縄県民、かく戦えり。
 県民に対し、後世、特別のご高配を賜らんことを」 (一部不明な文字は推定による)
 さすが剛毅な漢那も、肩をふるわせて鳴咽をこらえていたという。
 この沖縄戦の犠牲者は、沖縄出身の軍人、軍属、住民の戦闘参加者に一般市民を合わせると、実に十二万を超えると言われている。沖縄全人口四十五万のうち、四分の一以上が死んだことになる。
 終戦となり、昭和二十一年一月には公職追放令により、漢那は失職する。
 沖縄戦の戦火にまき込まれ、沖縄本島北部に逃れていた母オトが、栄養失調による衰弱で八十八歳の生涯をとじた。
 漢那も、昭和二十四年ごろから嫌な咳をするようになり、翌年には吐血するようになった。
 診察をうけたところ、肺癌と診断された。病床にかけつけた渡名喜夫妻に、「自分は力およばず、沖縄のために何もすることができなかったが、どうか君は沖縄復興のために頑張ってくれ」と言った。
 渡名喜は戦後、苦労の末、沖縄銀行役員、琉球捕鯨協会会長、琉球漁業社長、琉球水難救済会会長、琉球海外移住公社理事長等々をつとめ、沖縄のために尽くし、漢那の期待に大いに応えることになる。
 特に、沖縄観光開発事業団の理事長に任命されたとき、第一に手がけたのは豊見城(とみぐすく)の海軍司令部壕の修復であった。
 この司令部壕で、太田実司令官、棚町整総隊参謀(51期、戦死後少将)、羽田次郎沖縄空司令(47期、戦死後少将)らが拳銃で自決している。 渡名喜は、この司令部壕を中心とした一帯に、沖縄戦跡平和公園を造った。
 ここにある野村吉三郎大将(26期、大将)の筆になる海軍慰霊塔前には、今でも一日も欠かすことなく軍艦旗が翻っている。
 半身不随の夫人の、手厚い懸命な看護をうけ、漢那は、「一生お世話になるばかりで、何もしてやれなかった。すまなかった」と言ったが、これが最後の言葉だった。
 それから数日昏睡のあと、昭和二十五年七月二十九日の早朝、漢那は静かに息をひきとった。七十三歳の波瀾の生涯だった。
 なお、政子夫人は昭和五十二年、八十五歳でこの世を去っている。
(完)


September 30, 2007

恵隆之介作、沖縄に軍艦旗ひるがえる、「沖縄」 に尽瘁した漢那憲和少将の献身(4)

 この年十一月、ワシソトンで軍縮会議が開かれ、年が明けた二月、軍縮条約が紆余曲折の末、調印された。
 お召艦艦長の大役を終えた漢那は、大正十年十二月、戦艦「扶桑」の艦長となる。
 翌年春「扶桑」は南西諸島方面での訓練の帰途、沖縄中城湾に寄港した。
 母オトが「扶桑」に呼ばれ、久しぶりに母子が対面した。
 沖縄の人々は、中城湾に浮かぶ巨艦を見て驚き、そしてその艦長が沖縄出身であることに限りない誇りを覚えた。
 一年程して次は「伊勢」艦長をつとめたが、大正十二年十二月、少将に昇進と同時に横須賀防備隊司令に補された。
 これも約一年ほどして大正十三年十二月、軍令部出仕となり、翌年八月、待命となり、十二月に予備役編入となった。このとき、漢那は四十八歳であった。
 軍縮の余波をうけたとはいえ、予備役編入は早過ぎると、誰もが思った。漢那自身も意外だった。
 傷心の彼にとって唯一の慰めは、皇太子殿下がそれをお聞きになられて、「なぜ、漢那がそんなに早く予備役になるのか」と洩らされたことを伝え聞いたことであった。
 この予備役編入については、漢那があまりに剛直で上司にも遠慮なく意見を申し述べ、順応、妥協性に欠けるから、という説もあるが、それよりも、時の海軍大臣財部彪(15期、大将)の薩摩偏重による差別人事だという説が強い。しかし、それを否定する説もある。
 財部の人柄を知るこんな逸話がある。
 下谷永昌寺に弧々の声をあげた嘉納治五郎の講道館柔道は、明治十九年、富士見町に移ってようやく隆盛期に入ろうとしていた。
 この前後、海軍で早くも柔道を学んでいた何人かの人たちがいた。
 中でも、財部彪、広瀬武夫(15期、明治三十七年三月、族順口閉塞隊として「福井丸」で戦死後中佐)、それに少し遅れて湯浅竹次郎(19期、明治三十七年五月、旅順口閉塞隊として「相模丸」で戦死後少佐) は特に熱心であった。
 嘉納の柔道は、従来の柔術を更におし進めて、単なる武術から、修業錬磨による人間形成を目標とした。
 財部たちは、兵学校長有地品之允(期前、中将)、副官八代六郎(8期、大将)に懇願して兵学校教育に柔道をとり入れることに成功した。そして明治二十一年、兵学校が東京築地から江田島に移転したときに、講道館江田島分場の設立を見るにいたった。
 財部、広瀬、湯浅たちは、海軍柔道創設の功労者であった。
 財部は嘉納の人柄に心服し、熱心に柔道を学ぶと同時に心をも鍛えた。
 日清戟争のあと、明治三十一年、日本海軍は先進五カ国に、将来の日本海軍を背負ってたつ少壮士官を留学させることになり、第一に文句なくイギリス行きが決定したのが財部であった。なお、このとき秋山真之(17期、中将)はアメリカ行き、広瀬武夫はロシア行きとなった。
 その少し前、山本権兵衛軍務局長(2期、大将)は、娘イネの結婚相手を探していたが、白羽の矢をたてたのは、当時、常備艦隊の後任参謀をしていた財部であった。
 調べてみると、兵学校は首席卒業だし、そのうえ柔道で鍛えて体も人格も抜群である。一も二もなく惚れ込んで、さっそく財部に申し込んだ。
 すでにその頃、海軍一の実力者といわれていた山本の申し入れであるから、二つ返事で承知すると思ったら、財部はこれを断わろうとした。
 たまたま、同期で親友の広瀬武夫に話したところ、広瀬は、「俺もよした方がよいと思う。俺が断わってきてやる」と言って、強引にも一人で山本邸をたずねた。広瀬は山本に向かって少しも臆する風もなく、「私は、財部は頭脳、人格ともに傑出した男だと思います。放っておいても出世します。しかし、閣下の女婿になると、閣下の女婿だから出世したと言われます。それでは財部の将来に瑕がつきます。ですから、この縁談は破談にして下さい」と言った。
 すると山本は、「成る程、君の言うことは一理ある。しかし、それは私が依估贔屓(えこひいき)するような人間であれば、ということだろう。
 どうか私を信用してほしい。私は公私のけじめはつける。それに、つまらぬ噂を気にするようでは、人間は大成しないぞ」と、逆に説得されてしまった。
 財部は後年、大将になってからも請われて六つの内閣の海軍大臣を勤め、任期は延べ六年五カ月にも及んだ。
 山本権兵衛自身、薩摩出身でありながら大局に立って”薩摩の海軍″を打ちこわすことに苦心したのであり、その志をつぐ財部が、薩摩がどうの沖縄がどうのという片寄った考え方をする人ではなかったともいわれる。
 海軍を退役後、郷党の熱烈な懇請により、漢那は政界への進出を決意し、昭和二年、沖縄から衆議院議員に立候補して当選、以後、当選五回、勤続十年にもおよんだ。五回のうち四回は最高得票であった。
 昭和十二年には、内務政務次官をつとめ、昭和二十年には衆議院議長候補にも擬せられた。
 その間、沖縄については、教育の向上、産業開発、経済振興、さらには沖縄からのハワイ、北米南米等への移民の保護、支援等々、漢那らしい真摯さで数々の実績を示した。
 少しさかのぼるが、昭和七年漢那の東京の家には、沖縄の素封家から行儀見習いの年ごろの娘をあずかることが多かったが、そのころ、千代という娘がいた。
 千代の父は当時ハワイのヒロで病院を開業していた久米島出身の上江洲という医師である。
 漢那は、預かった娘は責任をもって行儀作法、言葉づかいなど、厳格に躾けたという。
 漢那は、彼の二十三年あとに、彼のあとをついで沖縄から兵学校に入校した渡名喜守定(となきしゆてい)(50期、大佐)を我が子のように目をかけていた。
 その渡名喜が海軍大学校に入学したのを機に、漢那は千代との間をとりもち、結婚させた。
 渡名喜について少し詳しく述べると ー
 渡名喜守定は、明治三十五年十二月、沖縄の北部、国頭(くにがみ)村北の字伊地に生まれた。父は染料の藍の生産を業としていたが、家計は貧しかった。
 渡名喜は、小学校のとき、成績はつねに首席であった。しかし貧しいため、中学に進むことを反対されたが、かならず負担をかけないようにするから、という条件で、沖縄一中に入学、約束通り特待生となった。
 そのころ、一家は那覇に移り住んだ。那覇から首里まで路面電車が開通していたが、渡名喜は五年間、一度も乗ったことはなかった。そればかりか、一足の靴を大切にして、ほとんどはだしで通学した。
 服も五年間、一着だけで通し、まさに弊衣破帽であったという。
 このころ、沖縄一中は野球の全盛期に入るころであったが、渡名喜は運動も、派手なつき合いも出来ず、地道に勉強だけしていた。
 英語が好きで、また、水泳は得意であった。
 兵学校への進学を決意したのは四年のころで、動機は、学費がかからないということと、先輩漢那憲和の影響はもちろんだが、当時読んだ浜口鶴雄(40期、大尉)著の「江田島生活」という本に感銘を受けたことによる。特に閉鎖された狭い沖縄だけしか知らない彼にとって、遠洋航海で世界を回るなどということは、何にもまして少年の夢をかきたてるものであった。
 しかし、受験するといっても、どうしてよいか先生に聞いてもわからず、仕方なく自分で規則書を取り寄せて準備をはじめた。
 家が貧しく、受験費用もおぼつかない彼に、教頭が沖縄二中の書記の口を紹介してくれた。
 ここで働いて三カ月分の給料を蓄え、鹿児島で受験するための旅費と、一カ月間の鹿児島滞在の費用をつくることができた。
 大正八年九月、念願の兵学校に入学、五十期生となる。校長は鈴木貫太郎中将(14期、大将)であった。
 大正十一年六月、二百八十名中二十二番の成績で卒業し、夢にまで見た遠洋航海に出た。
 ハワイ、北米海岸、パナマ、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、大西洋を渡ってケープタウン、ダーバン、インドの各国を回った。
 ところが、幸運なことに三年後、五十三期生の遠洋航海に、今度は指導官付少尉として、豪州、ニュージーランド、南太平洋諸島の各地を訪れることができた。
 第一回の遠航でハワイに寄ったとき、渡名喜はただ一人の沖縄出身だというので、沢山の沖縄出身の人々が盛大な歓迎会を催してくれた。しかし、それに反して、ブラジルに寄港したとき、沖縄出身のブラジル移民の生活は惨めで、ボロの衣服、わら縄の帯にはだしという姿で、沖縄よりもひどい生活であった。
 遠航を終わって艦隊勤務がつづき、大尉に進級、その間、砲術科高等科学生となり、その四年後に海軍大学校を好成績で一回でパスした。最年少の二十九歳であった。 当時の海大の教官に井上成美大佐(37期、大将)がいた。
 井上は難しい戦略の講義など一切せず、学生に推理小説をすすめたり、将棋の木村義雄名人を呼んで話を聞かせたりした。この海大在学中に、漢那の媒酌で千代と結婚したのである。
 海大卒業後は、第一水雷戦隊参謀、「古鷹」砲術長をへて、昭和十一年、オランダに駐在武官室を開設することになり、公使館付武官となって赴任した。
 この狙いは、将来の南方資源の確保、とくにインドシナの石油開発参加であった。
 当時、オランダの対日感情は悪かった。渡名喜は、まずオランダ語を修得することからはじめ、どんなところでも出かけ、できるだけ多くの友人をつくることを心がけた。
 そのころ、オランダ駐在の武官や外交官で、オランダ語を話せる人はなく、彼はオランダ語ができる唯一の外交官、として評判になった。
 昭和十四年末、海軍大臣から、日独伊軍事同盟締結の可否を問う諮問がなされたことがあったが、渡名喜は絶対反対である旨を強く進言した。
 面白いのは、のちに、漢那も日独伊三国同盟賛成者なのを知って、渡名喜がたしなめ、それ以後漢那は考えを改めたという。
 昭和十五年五月、渡名喜は帰国する。
 この時、オランダ政府は彼に、オレンジナッソウ勲三等を与えた。
 オランダでは、現役の中将、大将にも勲四等しか与えられないものを、日本の三十八歳の一中佐に勲三等とは、まさに破格の扱いである。
 のちに知らされたことであるが、その理由は、
 「渡名喜中佐は、ヒトラーとの同盟に絶対反対であった。また彼は、オランダ当局に対し、ヒトラーのオランダ侵略を警告し、オランダはその対応措置をとったために被害を軽微にし得た」からであるということであった。
 渡名喜は帰国後、海南島海軍根拠地隊参謀長となった。太平洋戦争中は、海軍軍令部参謀、南西方面艦隊参謀をへて大本営参謀兼海軍大学校教官になった。
 この時期、渡名喜は広田弘毅や高松宮と相謀り、東條内閣の倒閣運動に走り回った。
 やがて、それが海軍大臣の知るところとなり、呼び出されて警告をうけた。そしてその後は身辺に憲兵がついて監視されるようになった。
 それに嫌気がさし、第一線を希望したところ、福山航空隊司令に補され、ここで終戦を迎えた。 
 同期の寺崎隆治(大佐)は、彼をつぎのように評している。
 「渡名喜は頭もよいが、人格的にもすぐれた人であった。そして情報に明るく、視野が広く、大局的にものを見ることのできる人であった」
(以下次回)


September 28, 2007

恵隆之介作、沖縄に軍艦旗ひるがえる、「沖縄」 に尽瘁した漢那憲和少将の献身(3)

 皇太子(昭和天皇)の欧州外遊が決定したのは、大正十年二月のことである。
 これは、皇太子に国際性を身につけて頂くためと、大戦後の欧州各国の復興の事情を学んでいただくため、貞明皇后の理解と、時の宰相原敬および加藤友三郎海相(7期、大将)の政治力によるものであった。
 司令長官に小栗孝三郎中将(15期、大将)、参謀長は田口久盛少将(21期)、御召艦「香取」艦長に漢那憲和大佐、供奉艦「鹿島」艦長に小山武大佐(26期、少将)が決定した。
 漢那は、御召艦艦長という栄誉と重責に感激したが、この機会になんとか皇太子に沖縄を見て頂けないかと考えた。
 彼の熱心な具申により貞明皇后も賛成され、皇太子自身も希望されるようになり、ついに沖縄寄港が決定した。この時の漢那や沖縄人の喜びは大変なものであった。
 三月三日、艦隊は横浜港を出発した。 六日、中城湾に入港投錨する。
 中城湾には県民の努力により、俄か造りの桟橋が紅白の布をもって美しく飾られ、黒山のような群衆が海岸に集まって皇太子を奉迎した。
 与那原駅から那覇駅までは鉄道で、当時、沖縄には自動車がないので、あとは人力車である。
 この人力車の車夫の人選が大変だった。
 沖縄には、車夫は九百名位いたが、二、三カ月前から厳しい選考が行なわれ、その中から玉城という男が選ばれた。 そのほか、車の後押しとして、在郷軍人で金鵄勲章所有者が二名選ばれ、これも二週間前から県庁で合宿訓練が行なわれた。
 当時、沖縄の労働者階級は、三食とも芋食が多く、おならが多いので、途中でおならなどして不敬になってはと、合宿で二週間前から米食に切り替えたりして細心の注意をはらった。
 車夫たちは、礼儀、作法、服装、身だしなみまで厳重な指導をうけた。
 服装は、黒色ハッピにズボン、脚絆に地下足袋、笠はマンジュウ笠、という姿である。
 那覇駅から人力車で県庁へ。
 県庁で殿下は漢那の母オトや、有位有勲者にお言葉を賜わり、また県知事から県政一般について聴かれ、県物産をご覧になって首里へ。
 尚侯爵邸で休憩のうえ、沖縄一中や沖縄師範の生徒の空手演技をご覧になり、みずからカメラに収められたりした。
 人力車の走る沿道は黒山の人で、万歳の歓呼が島中にとどろいた。
 車夫の玉城は、無我夢中で車を曳いたというが、このことで彼は一躍人気者となり、のちに那覇築港の現場監督に抜擢されたという。
 漢那は、このときの感激を、つぎのように書いている。
「余は、青春時代羨望の的であった帝国海軍の将校として、今や郷国の海湾に、我が日本帝国のお若い殿下のお召艦『香取』を浮かべる時機に遭遇しては、感慨の尽きるところを知らなかった。
 しかも、そこには余を少年時代より、か弱き女の手塩をかけて育て上げた余の母が待っていたのである。思えば涙の滂沱たるものがあった」
 皇太子は航海中、午前は歴訪に必要な英語とフランス語の勉強で費やし、午後は甲板でデッキゴルフや、特設プールで泳いだりした。
 皇太子は、スポーツはそれほど得意ではなかったが、デッキゴルフなどで負けても、決して不機嫌になったりすることはなく、いつも上機嫌であったという。
 出航後一カ月程して「鹿島」内でボイラー管の破裂があり、三人の水兵が大火傷を負い、死亡した。
 しかも数日後には、同じ事故が「香取」でも起き、二人の水兵が亡くなった。
 皇太子は、「このような事故の原因は、たとえ間接的ではあるにせよ、自分にあることに心が痛む」と沈うつな面持ちで語られた。 漢那は責任を感じ、恐懼した。
 この「香取」に、柳本という若い分隊長心得がいた。二十年後に、ミッドウェー海戦で「蒼龍」艦長として燃えさかる艦橋にあって壮烈な戦死をとげた柳本柳作(44期、戦死後少将)である。
 「香取」がアラビアの港アデンに寄港したとき、よくある光景だが、現地人の漁船が近寄ってきて、魚を買ってくれ、という。
 柳本中尉は士官室の糧食仕入係も兼ねていたので、そのうちのなるべく大きく綺麗な漁船を選んで烹炊員に魚を買わせた。
 その時、一部始終を甲板でご覧になっていた皇太子が、「あの舟からも買ってやってはどうか」と言われた。
 見ると、十歳くらいの少年が、みすぼらしい小舟を一生懸命漕いでやってくる。
 柳本は、皇太子の普遍の慈悲の心にふれた思いで強い感動に襲われたという。
 皇太子は幼少のころから、かなり厳しい鍛錬をうけられたせいか、航海中もずっと元気で、他の者が船酔いに苦しむことがあっても皇太子のみは平然としておられた。
 艦隊が紅海に入ると猛烈な暑さで、夜など随員のほとんどが眠られなくなり、夜中甲板で涼をとったりしていたが、皇太子だけは船室で、しかも扇風機もつけずに休まれたという。
 日中、暑いときには大変だろうと、わざわざボイラー室を訪れ、兵たちをねぎらったりされたが、そのとき、ボイラー室の室温は摂氏五十度をこしていたという。
 このあと艦隊は、英、仏、ベルギー、オランダ、イタリアの順に五カ国を歴訪し、日本に帰ったのは九月三日であった。
 皇太子が、この外遊で驚かれたことの一つは、英国での王室と国民との関係が極めて打ち解けたものであるということであった。
 公爵夫人と農民が手をとり合ってダンスをするのを見て、「日本の皇室でも、ああいう風に国民に直接ふれる機会があると良いね」と、感想を述べられたという。
 また、スコットランドのアソール公爵が、社会福祉事業に尽力していることを知って、「日本でも、華族たちがアソール公を見習えば、過激思想など持つ者はいなくなるだろう」と洩らされた。
 また、皇太子は弟君の擁仁(やすひと)殿下(秩父宮) に、「初めて人としての自由を知った思いだ」と手紙に書かれたりした。
 フランスでは、第一次大戦の激戦地ベルダンで、戦火に荒廃した様を見、そして飢えた孤児や老女の惨めな様子を見て、「戦争とは、こんなにも悲惨なものか」という感じをもたれたという。
 皇太子が、半年におよぶ欧州旅行でとくに感じられたことは、真に日本にとって自由が如何に大切なものであるか、ということと、戦争の悲惨さ、平和のありがたさであったといわれる。
 おそらく漢那の感想も同じものであったに違いない。
 漢那は、このお召艦艦長の労をねぎらわれ、大正天皇より特に金杯が下賜された。
 皇太子は沖縄訪問をたいへん喜ばれ、外遊の日を記念して、毎年三月三日、当時の関係者を宮中に招いて午餐会を催した。 漢那が毎年、喜んで出席したことは言うまでもない。
(以下、次回)


September 27, 2007

恵隆之介作、沖縄に軍艦旗ひるがえる、「沖縄」 に尽瘁した漢那憲和少将の献身(2)

 奈良原も、じつは自分の息子を兵学校に入校させたかったが体が弱く、断念していたので、この時以来、彼は夫妻で漢那のことを我が子のように面倒をみることになる。
 ストや退学騒ぎで、漢那が兵学校の入試準備にとりかかったのは、受験日の四カ月前であった。
 猛烈な勉強のお蔭で、明治二十九年十一月、漢那は二十七期生として入学を許可された。沖縄出身者として初めてである。しかもこのとき、百二十三名中、四番の成績であった。
 二十七期には、中村良三(大将)、末次信正(大将)、古川四郎(中将)らがいた。中村良三とは終始、親友であった。中村は青森県の出身、医者の息子で、兵学校は入校時以来、卒業するまでずっと首席であった。
 漢那の背は低くかったが、体格はがっしりしていて、特に柔道と相撲が得意であった。
 明治三十二年十二月、漢那たち二十七期生は卒業する。
 漢那は卒業者百十三名中、中村良三、黒岩篤(大尉で病没) についで三番の成績で、この三名には恩賜の双眼鏡が授与された。
 遠洋航海はオーストラリア、ニュージーランド方面で約六カ月かかり、明治三十二年七月に横須賀に帰港した。
 その後、「橋立」乗組になったが、明治三十五年七月、休畷をえて五年半ぶりに沖縄に帰ることができた。
 母オトが喜んだことは言うまでもないが、奈良原知事は三日三晩、漢那を離さず、漢那の出世をわがことのように喜んだという。
 このとき、請われて漢那は那覇教育会総会で、沖縄県民の奮起をうながす講演をおこなった。
 その要旨は、沖縄県民はこの狭い土地に、小さな安逸に満足している。土地は狭いが海は無限である。もっと海事思想を鼓吹し、漁業を研究し、漁港および軍港の設備を充実すべきである。また、教育についての認識を改め、上級への進学率を高め、かつ海軍にもどんどん進出すべきである、というようなことであった。
 このあと、「金剛」「磐手」の航海長をつとめているうちに、明治三十七年二月六日、日露戦争が勃発する。漢那はこの時二十七歳であった。
 ところが九月末になると、漢那は激しい腹痛に見舞われ、検査の結果、赤痢と診断されて隔離病院に入院し、髀肉の嘆をかこつことになった。
 ようやく翌年一月、出羽重遠中将(5期、大将)指揮する第三戦隊所属の巡洋艦「音羽」に乗り組んで日本海海戦に参加することができた。漢那は艦長有馬良橘大佐(19期、大将)を補佐して奮戦した。
 ちなみに、候補生として「日進」 に乗艦していた山本五十六(32期、元帥)が、左手の指二本を失い、右脚太ももの肉をえぐりとられるという重傷を負ったのはこのときである。
 明治三十九年、海大乙種学生を卒え、翌四十年、海大航海術専修学生(のちの航海学校高等科学生)は首席で卒業、恩賜の銀時計を下賜された。
 そのあと、兵学校教官兼監事を命ぜられ、三十五期から三十八期までを教えた。この生徒の中に、南雲忠一(36期、戦死後大将)、井上成美(37期、大将)、小沢治三郎(37期、中将)、栗田健男(38期、中将)らがいた。
 明治四十二年度の練習艦隊は、伊地知彦次郎少将(7期、中将)を司令官として「宗谷」「阿蘇」の二艦で、ハワイ、北米、カナダ方面を航海する。このとき、旗艦「宗谷」の航海長兼指導教官として漢那は参加した。
 練習艦隊がハワイに入港したときの、沖縄移民たちの熱狂ぶりはすさまじい程であった。
 当時、移民の中でも、日本本土人は沖縄人を軽蔑し、差別的態度をとっていたが、練習艦隊の航海長漢那憲和大尉の来航は、沖縄県人に勇気と希望をあたえ、それ以来、本土人の沖縄人に対する態度は一挙に変わったという。
 やがて漠那は少佐に進み、海大甲種学生となるが、その間、彼は結婚した。相手は琉球最後の王、尚泰侯爵の五女政子である。
 明治十二年の廃藩置県の際、政府は琉球に対し、いわゆる『琉球処分』を行なった。それによって三月二十五日、尚円王統は、十九代尚泰で四百年におよぶ歴史をとじることになった。
 そのとき、尚泰は明治政府から、公債二十万円と、東京飯田町に広大な邸宅(現在、都立九段高校が建っている)、それに侯爵という身分を得て、十万石の大名並みの厚遇をあたえられた。
 政子は、沖縄の女学校から学習院女学部に進み、卒業時には成績優秀をもって皇后陛下の前で御前講演をおこなったほどの才媛である。
 結婚したとき、漢那三十三歳、政子十八歳であった。
 漢那は前から、老母との折り合いを考え、妻には沖縄人をと決めていたという。
 大正三年、漢那は海軍軍令部参謀兼海軍大学校教官となり、まもなく中佐に進級する。
 漢那が教えた甲種学生、十四、十五期の中には、山本五十六(32期、元帥)、豊田副武(33期、大将)、古賀峯一(34期、元帥)らがいた。
 この年、第一次世界大戦が勃発した。
 漢那は大正五年五月、大戦下の欧州視察を命ぜられ、約十一カ月を費やして、ロシア、スウェーデン、イギリス、フランス、イタリア、スイス、そしてアメリカなど七カ国をつぶさに視察した。
 この欧州視察について、のちに漢那は母校沖縄一中で講演を行なったが、そのときの在校生の中に、渡名喜守定(50期、大佐)や親泊朝省(陸軍大佐、終戦時自決)がいた。
 大正七年、大佐に進級し、軍令部参謀に補せられた。
(以下、次回)


September 26, 2007

恵隆之介作、沖縄に軍艦旗ひるがえる、「沖縄」 に尽瘁した漢那憲和少将の献身(1)

 漢那憲和(かんなけんわ)は明治十年九月、憲慎の長男として琉球藩那覇区西村に生まれた。
漢那の祖先は、中国大陸や薩摩間の交易船の船頭として財をなし、その金で士族の位を買い、琉球北部の漢那地区の地頭を勤めたので、漢那を名のるようになったという。
 父憲慎は王府の税関吏で、当時税関吏といえば、かなりの高級官吏であった。しかし、明治十二年、廃藩置県によって、琉球は沖縄県となり、このとき憲慎は失職した。
 失意の憲慎に代わって、妻オトは日本茶の行商をして夫をささえ、二人の子供を育てた。
明治十五年、憲和が五歳、弟憲英三歳のとき、父は結核で死んだ。
オトは、このとき二十四歳であった。
 彼女は子供の教育に特に熱心で、憲和は六歳になると漢学塾に通わせられ、ここで三年間、「四書五経」や「論語」などを学んだ。
 憲和は、手のつけられない腕白であったが、成蹟は常に優秀で、十歳で小学校初等科に入る時、二年に飛び級し、また明治二十年、学制改正のときも一年飛び級した。
 このころの担任の教師は、後にこう語っている。
 「漢那はいつも首席を占め、その熱心な勉強ぶりは異常な程で、夏の暑い頃など、他の生徒はよく居眠りをするが、漠那はあらかじめ用意した唐辛子をなめて、居眠りしないように努めていた」
 明治二十二年、漢那は小学校の高等科に進んだが、ここでも彼は全課目首席を占めた。
 しかし、母の茶の行商による収入は乏しく、漠那には着物は一枚しかなく、夜のうちに洗い、朝着て行くという具合であった。だから、時には半乾きのまま着て学校へ行くということもあった。
 そんな貧乏ななかで、母は憲和に沖縄中学校へ進学させた。母オトは、「うちは貧乏だ。だからこの貧乏から抜け出すためにも子供に学問をさせるのだ」と言った。
 漢那は入校者中、最年少で、しかも成績はトップであったので、特等生として学費を免除された。
 三年のとき、学生会長に任ぜられた。
 このころ、下国良之助という教師が、内地から教頭として赴任してきた。
 のちに彼は、沖縄の吉田松陰といわれるようになる人で、沖縄の遅れた教育を近代化するのに大変な功績のあった人である。
 この下国教頭が、明治二十七年、当時としては画期的ともいえる修学旅行を計画し、憲和たちは、初めて本土の土を踏み、京阪神地方を旅行した。憲和はこのとき十七歳であった。
 このときの生徒たちの感想によれば、
「目の回る程、多くの物質文明を見せられ」「いかに沖縄が立ち遅れているかを思い知らされ」
「向学心がますます刺激され」た、ということである。
 このとき、家の貧しい漢那には、下国教頭が旅費の一部を負担してくれたという。
 この年に日清戦争が勃発した。
 明治維新までは、日・支両属の状態をつづけていた琉球は、明治六年の台湾征討以後、明確に日本領土と認められるようになったが、その頃の琉球民の中には、日本統合をやむなしとする開明派と、あくまで従来通り、清国への朝貢国でありながら日本にも属する形をとろうとする強硬派とがあった。
 だから、日本統合に反対する強硬派は、日清戦争が始まった時に、神社や仏閣に詣でて清国の勝利を熱心に祈願したという。
 もっとも、戦いが清国の敗北で終わると、強硬派の大部分は、日本帰属派に変わっていった。
 このころ沖縄では、それまで全く見たことのなかった日本の軍艦が、時々沖縄に寄港するようになった。
 明治二十八年、日清戦争が終わった四月のある日、連合艦隊の旗艦であった「松島」が那覇沖に投錨した。
 漢那たちは、さっそく学校のボートを出して「松島」を訪れることにした。
 その日は海が荒れていたが、途中からますますひどくなってきた。とても「松島」までは行けそうもないので、他の友だちは途中から引き返そうとすると、漠那だけは、「ポートが波をくらって沈むよりは、思い切って漕いでいって軍艦に救われる方がましだ」と言ったので、みんな必死になって漕ぎ、ようやく「松島」に辿りつくことができた。
 びしょ濡れになった彼らを、「松島」の若い士官が士官室に案内してくれ、彼らの勇気を賞賛し、西洋料理のご馳走までしてくれた。みんな生まれてはじめて食べる料理である。
 その若い士官は、佐野常羽少尉(18期、伯爵、少将)といった。
 佐野はのちに駐独武官を永く勤め、帰ってからは「津軽」「榛名」の艦長などを経て、大正八年に少将に任ぜられた人で、佐野常民の嫡子である。
 佐野常民は佐賀の生まれ、明治政府では元老院議員、枢密顧問官などを歴任、明治十年の西南戦争の時、博愛社を創設し、敵味方の区別なく傷病者の救護にあたった。その後、博愛社を日本赤十字社と改め、常民は初代の社長となった。
 佐野少尉は、「君たちの中に、将来、海軍軍人になりたい者はいるか」と尋ねると、即座に、「はいッ、自分がなります」と大声で答えたのは漢那であった。
 咄嗟に答えた漢那であったが、しかしこの時、彼の心は急速に海軍を身近に感じるようになったのは事実であろう。
 明治二十八年、漢那は五年生になった。彼は四キロほどの道を歩いて通学するのだが、その通学途中、彼をしたう下級生が、ぞろぞろと彼につき従うように歩き、漢那の前を横切るような下級生は一人もいなかったという。彼は全校生徒の尊敬と憧れの的となっていた。
 その年十一月、沖縄を震撼させる事件がもちあがった。沖縄一中のストライキ事件である。そしてその首謀者は、学生会長である漢那である。
 一中ストライキ事件は、廃藩置県後、沖縄で起こった初めての大規模な学校ストライキであった。
 当時、沖縄には中学校として沖縄師範学校と沖縄中学校(沖縄一中)の二つしかなかったが、この双方の校長をつとめていた児玉善八の、沖縄人を差別した発言や、差別教育、教師の罷免などに対してストは起こされた。
 具体的には、沖縄の本土同化を急速に促進するため、英語教育を廃し、国語のみにしようとしたこと、そしてそれに反対した下国教頭の休職処分と、沖縄と沖縄の文化を愛し、しかも極めて開明的であった国語の教師田島利三郎教諭の罷免などが直接のきっかけであった。
 漢那は数人の同志と相計り、児島校長に対して徹底的に戦うことを誓い合った。
 そこで彼らは、まず、下国教頭や田島教諭に迷惑のかからぬよう、退学届を出し、その上で児島校長に辞職を勧告した。
 漢那らは、他の生徒にも働きかけたので、それからは毎日、何人かずつが退学届を出してストに参加するようになり、ついには三年生以上の殆どが退学届を出し、更に一、二年生にも呼びかけたので、結局、退学届を出したのは百数十名にも達した。
 このストに、琉球の新聞も同調したので、全島的な大問題に発展した。
 学校当局は、漢那はじめ五人の首謀者を、文部省令による退学、という強硬手段で応じてきた。
 学校側はまた、生徒の父兄を一人ずつ呼び出して説得しょうとしたが、父兄でこれに応じる者は一人としていなかった。
 漢那たちは、ストの長期化を予想し、民家を拠点として、『同志倶楽部』を組織し、この倶楽部で二学級を編成し、上級生が、一、二年生に授業を行なうことをはじめて、長期戦の体勢をつくった。
 漢那たちの真剣さと、その主張に賛成し、各地から闘争資金がぞくぞくと寄せられ、その金額は百円にも達したという。当時は米一俵が三円、東京遊学でも一カ月の学資が五円で足りるという時代である。
 自分たちの栄達も、身の安全も顧みない漢那たちの純粋で真剣な戦いに、沖縄人はこぞってこれを応援したのである。
 この影響は、やがて小学生にまでおよび、「あんな校長のいる中学校には入りたくない」と言うようになった。
 ある小学校では、全員が中学校進学を拒否したという。
 沖縄のすべてをあげての抵抗に、万策つきた当局は、ついに児玉校長の県外転任を決めた。ストはついに成功したのである。
 この時、漢那の行動を逐一、じつと見つめている人がいた。沖縄県知事奈良原繁である。
 面白いことに、ストを鎮圧する側の県知事が、漢那の頭脳と、統率力、行動力、それと人柄に、すっかり惚れ込んでしまったのである。
 奈良原は漢那を自宅に呼び、海軍兵学校に入ることをすすめた。これが漢那の海軍へ入る直接のきっかけであった。
 奈良原繁については、幕末維新史にその名をしばしば散見する。
 万延元年三月三日、水戸の浪士十七名と、それに薩摩藩士有村治左衛門を加えた計十八名が、桜田門外に井伊直弼の行列を襲った。      
 このとき、井伊大老を駕寵から引きずり出して首を刎ねたのは有村治左衛門であった。
 有村のこの時の働きは目ざましいものがあったが、自身も重傷を負い、引き揚げの途中、雪の中で屠腹した。
 この計画には治左衛門の兄雄助も加わっていたが、雄助は別の使命をおび、暗殺成功とみるや直ちに京都に飛んで、京都で一挙に幕政一新の旗を上げんとしていた。
 しかし、事件後、薩摩藩は幕府の圧力を恐れ、藩の安泰を考え、雄助に切腹を命じた。このとき、雄助の介錯をしたのが示現流の達人、奈良原繁であった。
 文久二年四月二十三日、有馬新七をはじめとする薩摩藩士(この中には大山巌や篠原国幹もいた)や、真木和泉、清河八郎、本間精一郎ら数十名が、伏見の寺田屋に集まり、京都に入って関白と京都所司代を斬って騒動をおこし、島津久光を迎えて一挙に倒幕の軍をおこそうとする謀議をこらしていた。
 しかし、久光自身は公武合体を考えていたので、この策には反対で、なんとか彼らに思い止まらせようとして、大久保一蔵(利通)を派遣したが不調に終わり、ついで、槍の名手で示現流の達人奈良原繁以下四名(のちさらに五名が加わる)に交渉に赴かせた。
 奈良原は、有馬たちの拒否にあうやたちまち斬りかかり、有馬以下九名を斬殺し、彼らの企てを阻止した。
これがいわゆる寺田屋騒動である。
 さらにこの四カ月後に生麦事件が起こった。
 薩摩藩主島津久光の行列の前を、数人のイギリス人が横切った。そこで列の先頭にいた藩士たちが刀を抜いてこれを斬殺した。
 その時、最初に切りつけたのは奈良原繁であった。
 このことが原因となって薩英戦争がはじまるが、この戦さでも奈良原は奮迅の働きをした。
 このように奈良原は、なかなか血の気の多い男であった。維新後、奈良原は伊藤博文や松方正義の懇請により、中途で呼びもどさないことを条件に、明治二十五年、沖縄県知事に就任した。
 以後十六年間、持ち前の強引さで県政を押し進め、一部の反体制派からは植民地主義的な差別政策と受け取られ、『琉球王』と呼ばれて恐れられたが、反面、土地税制の改革、地方制度の改正のほか、教育面では就任時十七パーセントだった小学校就学率を在任中に九十三パーセントにまで向上させたり、那覇港の修築、農工銀行の新設等々、数々の功績を残した。
 明治四十一年、奈良原が沖縄を去るとき、那覇港は見送りの人たちで黒山のようになり、中には小舟で港外にまでついてきて、名残りを惜しむ人も多かったという。
(以下、次回)


September 25, 2007

『お召し艦艦長、沖縄出身提督・漢那憲和の生涯』について

反日日本人の牙城・沖縄で
戦力的な活動をされている
恵隆之介さんからの情報です
絶版になっている
恵さんのご著書『お召し艦艦長・沖縄出身提督・漢那憲和の生涯』
に関してです

小林よしのりが恵さんのご著書を
いろいろと参照していること対して
それを「誰にも相手にされていないトンデモ本」扱いしている
ド左翼がいるようですが
現実をさらけ出されると
パニックに陥るのが
連中のツネですね
「集団自決命令」という神話が崩壊した今
その傾向は益々強まるでしょう

沖縄で孤軍奮闘の恵さんに
ご支援をお願いします

以下、原文のまま
公開します

+++++++
恵です

 沖縄というと即「韓国型反日」というイメージですが、実はこういう偉人もおりま
した。
 残念ながら小著「天皇の艦長・沖縄出身提督・漢那憲和の生涯」は、出版当初(昭和60年)は、県内ベストセラーを半年間維持しましたが、その後。沖縄の教育会や学会に完全に無視抹殺されております。
 以下はそのダイジェストブロッグです。
 主人公漢那提督は県民の怠慢をくちすっぱく批判しておりましたため、この本が浸透すると、「戦前沖縄人は本土に差別され虐げられた」という論拠を失うここと、戦後沖縄左翼のヒーロー達が、戦前は過激右翼であった事を実名入りで紹介いるからです。
 文藝春秋の直近号に阿川弘之先生が、本件について昭和天皇ご読んでおられたと表現されております。確かに高松宮殿下の推薦を頂いて献本致しました。陛下は大変喜んでおられたと後ほど殿下から伺いました。(以上)
+++++
恵さんが書かれた
ダイジェスト版は
こちらで読めます
また、添付されていた原文を
本日より分割して連載します
(「追記」するには長すぎると
システムに拒絶されました)

沖縄の歴史と現実に目をやることは
非常に重要です
なぜなら、沖縄で渦巻いている
日本軍による集団自決命令という
歴史捏造の嵐は
偽南京事件とも
偽慰安婦ともつながっているからです

左翼の策動は沖縄から

この元を断つためには
基地問題に全ての問題を矮小化して
ごまかされている
沖縄県民が目覚めること
そして、沖縄の真実について
全ての人が目を背けないことです
【怪童】


September 24, 2007

沖縄県立南風原高等学校で行われたトンデモ授業

横浜のHさんからの情報です
++++++++++++++
「沖縄集団自決命令」削除に関して、
沖縄タイムスでとんでもない記事を見つけました。
公立の高校でこんな偏向した政治的なことをやって良いのでしょうか?
皆さんも抗議してください。
特に記事の終わりの方にある国語科・兼久直教諭の「もし自分の好きな
彼氏が殺され、後で『殺しはなかったことになりました』と言われたら
どう思うか?」という生徒への問い…、この低レベルで杜撰な論理には
あきれました。

*****************************
沖縄県立南風原高等学校
FAX:098−889−3667
TEL:098−889−4618・2890
住所:沖縄県島尻郡南風原町字津嘉山1140番地
*****************************

授業前10分 教科書検定問題学ぶ/南風原高
2007年9月22日(土)夕刊 5面
【南風原】二十九日に開かれる「教科書検定意見撤回を求める県民大会」の意
義を学ぼうと、南風原高校(識名昇校長)は二十日から毎朝の「読書タイム」
に、全学年約九百人の生徒が教科書検定問題などを取り上げた新聞記事を読む
取り組みを始めた。二十八日まで続ける。県民大会には教諭らが「読書タイム」
などを通して学んだ生徒のメッセージを書き込んだ横断幕を掲げて臨む。幅約
四メートルの横断幕に、同校九百人の平和への思いを託す。(仲本利之)
高校生の視点で検定問題を考えようと、国語科の仲村将義教諭を中心に数人
の教諭らが沖縄タイムスなどに掲載された記事をピックアップ。八時五十分か
ら十分間の「読書タイム」に、黙読し各自で問題の背景などを考えている。
一年五組(担任・具志堅忠教諭)では二十一日、約四十人が、渡嘉敷島で起
きた「集団自決」について金城重明さんの体験を紹介する記事などを読んだ。
上里真央さん(15)は「『集団自決』が起きたことを沖縄だけでなく、日
本全体の問題として考えてほしい。本当に起きた事を正しく伝えていかなけれ
ば、次の世代は沖縄戦で何が起きたのか分からなくなってしまう」と危惧した。
一方、普段から新聞を読まず、あまり関心を示さない生徒もいるという。国
語科の兼久直教諭は「もし自分の好きな彼氏が殺され、後で『殺しはなかった
ことになりました』と言われたらどう思うか?」と生徒らに問い掛ける。
「たとえ関心を示さない生徒でも、身近な人に置き換えて考えれば、無関心
では済まされない事だと分かってもらえる」と話す。
 同校は二十九日に学園祭を開く。生徒らが県民大会に参加できるよう学園祭
の延期も検討したが、中間試験やインターンシップなど過密日程を抱え日程変
更を断念した。県民大会には生徒らに代わって教諭らが参加する。

*****************************

これを臆面もなく報道する
『沖縄タイムス』のイカレポンチぶりにも
あきれますが
公立高校でというか
1条校でこんなことを
平気でやっている無神経さには
あきれ果てます

心ある皆さんの抗議をお願いします
【怪童】

September 02, 2007

海上保安庁の不法臨検の映像があります

仲間均石垣市議会議員が
尖閣諸島付近で海上保安庁に検挙される
異常事態が発生したことは
既にお知らせしたとおりです

日本人は臨検・拘留するが
外国船の違法はなぜか無視

仲間氏の尖閣諸島視察と
海上保安庁の不当臨検の現場の映像が
こちらのブログで公開されています

この国のおかしさを
実感してください
【怪童】

August 22, 2007

尖閣列島はどこの領土だ?

中国が虎視眈々と狙っている
尖閣列島は沖縄県石垣市に属します
その尖閣列島を視察しようとした
仲間均石垣市議会議員が
海上保安庁に不当な臨検を受け
拘束されたという事件は
日本でも報じられたでしょうか?

「主権回復を目指す会」で行われた
仲間議員を招いての勉強会で
その時の状況が報告されました

いったい、尖閣列島は
どこの国の領土なのか?
(下のアマゾンの広告に
井上清=毛沢東主義のド左翼の本が
紹介されているかもしれませんが
その本を読んで答えちゃいけませんよ)

確かに、硫黄島や南鳥島など
民間人が立ち入れない島は他にもありますが
仲間議員は石垣市議であり
はっきりとした権利に基づいての行動なのに
何を政府は
中共に遠慮する必要があるのでしょう

向こうはアメリカに
西太平洋を要求するような厚顔無恥です
そんな連中に気を使う必要などありません
【怪童】
続きを読む

August 12, 2007

日本の西端・与那国島は半分台湾だった?

産経が、日本最西端の島である
沖縄県与那国島が自治体外交に挑戦し
台湾の花蓮に
連絡事務所を設置していることを報じました
(記事は追記)

それは勿論よい事なのですが

米軍占領時の置き土産で
与那国島の航空管制の西半分は
台湾空軍のものだと言うのです

憲法を始め
戦中・占領時の負の遺産がたくさんあることは
よく知られていますが
与那国がそのような状態だと
どうして今までまじめに論じられなかったのでしょうか?
実際中国は
与那国島の近くにミサイルを撃ち込んだ前科があります

そして中国は
今でも沖縄は中国のものだと言い張っています
下品で貪欲で歴史を知らない連中ですが
「ひとつの中国」という神話に日本が加担すれば
与那国島の半分は中国のものだと
自ら認めたことになってしまう訳です

これを逆手にとって
民主主義に目覚め
地政学的に我が国にとって重要な
台湾を支援することの方が
理にかなっていると思います
【怪童】続きを読む

June 27, 2007

マスコミが無視した、沖縄戦死者遺族が総理にお願いした「靖国参拝」

沖縄在住の狼魔人さんからの情報です

6月23日安倍首相が参列して
戦没者追悼式が行われましたが
仲宗根遺族連合会会長が式辞の中で
「首相は靖国神社を参拝して欲しい」と
述べていたとのことです

去年の追悼式でも
仲宗根会長は同じ文言で小泉前首相に
靖国参拝のお願いをしていたそうで
それが小泉前首相の8月15日の靖国参拝を
促したという話もあります

『日経』だけがこれを昨年
清水真人編集委員の署名記事で
報じたようです
(一応追記しておきます)

主要マスコミは去年も今年も
全部これを無視
何を恐れているのでしょうか?

英霊は「靖国で会いましょう」を希望に
日本人と日本の将来のために
散っていったのです
遺族が総理に靖国参拝を願うのは
当然のことですし
それを報じないのは
どう考えてもおかしいです

嬉しかったのは
やはり小生の思いの通り
沖縄の普通の人々は
マトモだったということです

狼魔人さんのブログは
こちらです
「狼魔人日記」
【怪童】
続きを読む

June 23, 2007

反日支那人と同じ論法の沖縄県議会、県下各市町村議会

沖縄の人々は、日本国旗を掲げられる日を心待ちにしていた裁判を通じて
「集団自決に軍の関与なし」ということが
はっきりとしてきたのを見て
文部科学省が教科書に検定意見をつけ
誤りを糾したことに
県議会が全会一致で反対していると
各紙が報道しています
(うれしそうに書いている
「朝日」の記事を追記しました)

日本人の中に
ここまで無知蒙昧な人々がいるとは
情けなくも悲しい話です

反対事実を突きつけられても
「いや、あったに違いない」
「なかったはずがない」
という非論理的なことを言って
歴史を歪めようとするのは
反日支那人・韓国人
人種差別主義者のアメリカ人と
やっていることがまったく同じです
なぜ軍人が無実の罪で断罪されているのを
助けようとはしないのでしょうか?

これも軍人に対する
恐ろしい差別です

沖縄は落ちぶれ左翼の草刈場です
先頭に立つ琉球大学の高島某(変節漢・家永三郎の弟子)など
アジテーター以外の何者でもありません

沖縄のローカル新聞『沖縄タイムズ』『琉球日報』は
『赤旗』よりも左かもしれません
全国紙も両紙の印刷所を借りているから
沖縄ではまともなことを言えない

美しいサンゴ礁がある楽園・沖縄は
恐ろしい言論封殺の島でもあるのです

狼魔人さんは
こう語ります

「沖縄では、地元新聞社による言論封殺が行われています。
琉球新報に連載中の地元ドキュメンタリー作家の記事が読者に何の断りも無く掲載中止になっています。
記事が新聞社の意図に反して「集団自決には軍の命令は無かった」という内容だからだそうです。
これでは戦前の報道検閲を新聞社自ら行っていることになります。
沖縄では地元二紙を始め、民放4テレビもNHK沖縄も偏向しており、同作家の記事を発表する場所はありません。
沖縄県民は知る権利を奪われた状態です。
詳しい経緯は拙ブログ「狼魔人日記」に
  ↓
http://blog.goo.ne.jp/taezaki160925
+++

藤岡信勝先生からも
下記のようなメールをいただきました

「<転送歓迎>藤岡信勝です。沖縄集団自決に関する文科省の検定をめぐって心配な兆候があらわれています。沖縄の検定撤回運動にあおられて、参議院選挙を前に政府・自民党が反対派と何らかの密約をしかねない雲行きなのです。そこで、私たち自由主義史観研究会は、総力をあげてこの問題に取り組みました。以下、3点の取り組みを情報としてお知らせします。
(1)産経新聞6月21日付けの「正論」欄に、代表の藤岡信勝が、「『政治的妥協』の愚を繰り返すな/「沖縄集団自決』と教科書検定」と題する論説を書きました。
(2)自由主義史観研究会の公式ホームページ「教科書が教えない歴史」で、「沖縄集団自決 虚構の軍命令」という緊急特集を6月21日早朝、アップしました。web担当の木村さんが大変な努力をされて、圧巻というべき充実した内容になっています。全部読むのに相当時間がかかるでしょうが、是非のぞいてみて下さい。これで「軍命令説」は説得力をもって完全に論破されています。
(3)6月21日午後7時30分からのNHK「クローズアップ現代」で、「沖縄戦『集団自決』の真実は」が放送されます(以下文字化けで読めず)
以上、お知らせまで。(6月21日午前8時記す)

ところがこの「クローズアップ現代」が
恐ろしく変更したものであったと
複数の同志から報告がありました

藤岡先生はこのように報告されています

「NHK「沖縄戦集団自決」番組の偏向度
自由主義史観研究会代表 藤岡 信勝
 6月21日午後7時30分からNHK「クローズアップ現代」で、「『集団自決』
62年目の証言−沖縄からの報告」が放映された。この番組には、私と自由主義史観
研究会のメンバーが取材協力した。1回目は5月24日、つくる会の事務所で、2回
目は6月7日、自由主義史観研究会の事務所で取材を受けた。2回目の取材はカメラ
が入り、私のインタビューのあと、研究会の編集会議の様子を撮影した。
 出来上がった番組は、驚くべき偏向番組であった。まさかこれほどとは思わなかっ
たというのが正直な感想である。放送法第3条の2には、「2 政治的に公平である
こと」と「4 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点
を明らかにすること」を放送事業者に求めている。これに照らして、上記番組はどこ
に問題があったか検証してみよう。
 第1に、番組の偏向度は量として現れる。「沖縄集団自決」はいうまでもなく「意
見が対立している問題」である。こういう問題の場合、当然両方の主張をきちんと報
道しなければならない。主張を取り上げる時間は、理想的には「5対5」になるべき
だが、放送局や番組制作者のスタンスがどうしても反映するから「6対4」程度にな
るのはある程度やむを得ない。さらに大目に見て「7対3」でも、「3」の側の論点
がきちんと提示されていれば、基準を甘くして許容範囲とすることも場合によっては
可能であろう。これが「8対2」では、もう救いようがない偏向番組である。
 さて、上記の番組はどうだったか。「集団自決=軍命令説」に反対の立場、すなわ
ち文科省の検定を当然のこととして支持する立場の映像は、梅澤隊長の大江健三郎に
対する名誉毀損裁判提訴の際の映像が30秒、私と自由主義史観研究会の映像が合わ
せて40秒、合計1分10秒前後の時間しか充てられない。番組全体が25分だか
ら、これでは「9対1」以上のひどい落差である。
 第2に、「できるだけ多くの角度から論点を明らかに」などしていない。過去20
年間、「軍命令説」が教科書に書かれてきたのは、梅澤、赤松の両隊長が住民に集団
自決を命令したとされてきたからだった。それは、実は、遺族援護法による年金を受
給するための嘘の証言によるものであったことがわかり、「軍命令説」が完全に崩壊
したという近年の動向を受けて、文科省は遅きに失したとはいえ、今回検定で初めて
意見をつけたのである。この最も重要な論点が番組では完全にネグレクトされてい
る。このポイントがわからなければ、検定意見の背景は全くわからない。番組は、そ
うしてわからないようにしておいた上で、「突然」という言葉を2回も出して、検定
が異常なことであるような雰囲気を作り出している。驚くべきことである。
 第3に、番組の論理の立て方そのものが間違いである。「日本軍によって」という
「強制」の主体が検定で消されたから、「住民が追い込まれて」と書かれていても、
「誰によって」という主体が抜けてしまった、というナレーションが入る。「誰」と
名指そうとすること自体が間違いである。当時は日本全体が米軍に攻め込まれたら集
団自決が起きかねない状況だった。沖縄だけが特殊ではないのだ。私より一回り、1
0歳年上の友人は、戦争末期茨城県に住んでいたが、もしそこに米軍が侵攻してくれ
ば、母親は幼い自分を殺したうえで自らも自決したであろうと語る。私の長姉などか
らも、米軍が来たら女性は強姦されて殺される、男性は局部を切り取られる、といっ
た話が広く信じられていたことを私が小さい頃から何度も聞かされた記憶がある。
もし、どうしても「誰」の責任かを問いたいのなら、直接の命令を下した人物が浮
上することになる。座間味では村の助役が、渡嘉敷では村の村長が住民に自決命令を
下したのだから、かれら行政の責任者にこそ直接の責任があることになる。もちろ
ん、私はそんな責任追及に意味があるとは全く思っていない。状況全体のしからしむ
るところだったというべきだからである。
 第4に、番組では軍が手榴弾を積極的に配って自決に追い込んだという「証言」を
繰り返し流して、「広義の」(?)「軍命令説」を何とか維持しようとしているが、
ここでも、手榴弾を積極的に求めたのは、地元の男性で組織された防衛隊であり、彼
らが住民に手榴弾を配ったのである。それでも足りなくて一人に1個など当たらな
かった。住民は手榴弾など自決の手段を隊長に求めて、断られていたのが真実であ
る。今、糾弾の対象となる「日本軍」なるものは存在しない。だから、それを悪者に
しておけば精神の平衡が保てるのかも知れないが、少し考えればわかるように、それ
は全て戦後的な後知恵の解釈である。沖縄の人でも、心ある人でそういう道理のわか
る人はいるはずだ。そういう人も一切登場させない。
 以上、いくつかのポイント指摘した。まだまだ書かなければならないことが沢山あ
るが、今回はここまでとして、近々続きを書くことにする。最後に、放送法違反でN
HKを告訴することも検討していることを付け加えておく。」
+++

最後に冒頭の写真
復帰直前の1972年5月15日の那覇
国際通り・三越前での
日本国旗の大売出しの風景

今回の沖縄旅行で偶々発見しました
市井の人々がド左翼なら
こんな写真をあえてかかげないでしょう
沢山の日の丸を前に笑顔の人々
「本土に復帰して
国旗を掲げ、国歌を歌いたい」というのが
沖縄の人々の願いでした

沖縄の市井の人々は
左翼のアジテーターや
馬鹿な議員とは一線を画していると信じたいです

左翼が沖縄のメディアや議員を
短期間で反日に仕向けたのは
天晴れとは言いたくありませんが
保守陣営の油断は非難されるべきです
「沖縄県民斯く戦へり」と最後の電文を送った
太田実中将は
草葉の陰で泣いておられることでしょう

全ての反日は
日本の歴史を歪め
日本を精神的に破壊するという目的に
邁進しています
私たちは事実を突きつけ
まずは沖縄のアジテーターを粉砕し
沖縄県会議員や県下各市町村議会の
パラノイア議員たちを覚醒させ
精神的に沖縄を日本に取り戻さねばなりません

沖縄の議員たちの愚行を放置することは
偽南京事件や偽慰安婦を野放しにすることと
まったく同じことです

『沖縄集団自決冤罪訴訟を支援する会』
のサイトはこちらです
『自由主義史観研究会公式ホームページ』にも『沖縄集団自決』の特集があります
NHKの偏向報道についてもこちらをご参照ください

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