October 03, 2013
佐々木さんの東京大空襲の実体験(erasusさんの反応 )#94
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たつやさんのコメント
校正おそるべし(笑
「京都の安土に佐々木神社があるのだ」→滋賀県の安土に
佐々木神社のある安土桃山に参拝した時→佐々木神社のある安土に参拝(安土は滋賀県、桃山は京都府で、別の場所
2013/10/2(水) 午前 2:26たつや
木庵の反応
<木庵も「京都に安土があったのか」と心のどこかで思ったような気がする。ところが、そのあたりの正しい知識がないため、佐々木さんの記事をそのまま載せた。これは校正する立場の木庵の責任である。桃山はたしかに京都にある。
木庵の友人からの指摘もある。「佐々木神社」ではないのだそうだ。正しくは「沙沙貴神社」 と書く。ウイッキペディアで調べてみても「沙沙貴神社」であった。木庵>
ウイッキペディアの記事
沙沙貴神社(ささきじんじゃ)は滋賀県近江八幡市安土町常楽寺にある神社である。式内社で、旧社格は県社。
少彦名命を主祭神として計四座五柱の神々を祀り、「佐佐木大明神」と総称する。佐佐木源氏の氏神であり、佐々木姓発祥地に鎮座する。
佐々木さんの最新の記事
木庵 先生
今朝先生にメールした後、徹底的にアルバムを捜しましたら出てきました。
1回目の時のと2回目に行った時の両方が出て来ました。写真を主人に見せて「この場所覚えている? 」と尋ねましたが、「行っていない」と言います。ですから、2回とも私1人で行って写真を撮ってきたのだと判明しました。
初めに倉敷に私1人で仕事で行った時期を思い出せませんが、仕事の後、倉敷の町を知る為に観光バスに乗りました。その時バスガイドが、「このバスは通過しませんが、この右手の方に『乗り出し岩』という処があります。そこに佐々木盛綱の墓があります。別の観光バスが通過しますのでご利用下さい」と云うのです。早速その観光バス終点の倉敷駅前で降り、別のルートの『乗り出し岩』を通過するバスに乗り替えて『乗り出し岩』で下車しました。
下車したものの、人は誰もいませんでした。家もないので心細くなりましたが、そこに「源平藤戸合戦史跡・佐々木盛綱」と記された1メートル程の白柱が立っているではありませんか。
しかし、小道の向こうに大きな岩があるだけで何もありません。仕方がないのでお転婆の私は乗り出している大きな大きな岩石を登りました。
何とその大きな石を登って初にお墓を見つけました。そのお墓に花束がささげられているのです。誰がこんな辺鄙な処のお墓に花束を捧げに来て下さるのか???不思議で不思議でたまりませんでした。
どうしても又行きたくなり。2回目今度は倉敷から直接佐々木盛綱墓で下車、「乗り出し岩」の上のお墓に直行しました。そうすると、お年寄りのお婆ちゃまが盛綱の墓の前に屈んで花束を供えているではありませんか。もう吃驚です。
1ヶ月に1回病院に行く時にここを通過するので、必ず花を添えるのだとおしゃるのです。お宅はその細い道を上にいった処にあるとの事でした。
そのお婆ちゃまから「笹無山が次のバス停にあるから必ず立ち寄ってから帰宅するよう」に言われました。言われたように笹無山に行きました。立て札を読んで初に知る先祖盛綱の素行でした。立札は下記の様に書いてありました。
笹 無 山
源氏の武將、佐々木盛綱は対岸の
平氏の陣へ渡る藤戸の海の浅瀬を、一
人の浦人から聞いた。盛綱はせっかく 知り
り得た浅瀬の秘密、味方の武將に教えら
れたてはと、浦人を切る捨て、源平「藤戸合戦」
の功名を」たてたのである。
中略
今日では雑木の笹は生い繁り、
八百年の歳月は老母の妄執を消え
去らせている。
昭和六十年十一月吉日
藤戸史跡保存会
私の祖父母はこの事実を知っていたのかどうか、私にはこの話を一度もしたことが無く、全く知りませんでした。もし二回目にお会いした小林のお婆ちゃまに出会っていなければ、私は知らずにいた事です、偶然出逢った人から知った史実ですが、今思うと、盛綱が私に伝えたいと思って私を誘導したのでしょう。
五〇〇年以上経っていますが、目に見えない世界は確実にあると思える今日此の頃です。
佐々木
追伸 中略にしましたのは少々手が痛くなりました。スミマセン。
必要であれば、明日にでも中間のみメール致します
お早うございます。
(下記は昨日腕が痛くて中略にした部分です)
これを知った浦人の老婆は恨みを晴らす
ことのできぬわが身を嘆き、佐々木と言
えば笹まで憎いと、半狂乱となり、この小
山の笹をむしり取ってしまったという。以
後この小山には老婆の執念が通じたのか
笹が生えることがなかったということか
らこの名がついたのである。
以上が昨日の中略の部分です。
写真を撮ってあったので、其の儘立て札通り忠実に写しました。
木庵の反応
<佐々木さんはどんどん昔のことを思い出されている。倉敷に佐々木信綱の墓があり、そこに佐々木さんは二度もお参りなされている。そのときの老婆との巡り合いも面白い。佐々木信綱のことについて書かれたウイッキペディアの記事がまだ終わっていない。木庵>
鎌倉の御家人
平家滅亡後、源頼朝と弟の源義経との間で対立が深まっており、そうした中の文治元年(1185年)10月24日、頼朝は父である源義朝の供養を行い、盛綱もそれに列している。文治2年(1185年)10月24日、甘縄神社へ参拝した頼朝に随行する。文治4年(1187年)7月10日、源頼家が初めて鎧を着る儀式に加わる。建久元年(1190年)8月15日、頼朝の鶴岡八幡宮参拝に随行する。
同年7月20日、頼朝の邸宅での双六の最中に、盛綱の15歳の息子・信実が工藤祐経の額を石で打ち、流血へと至る事件が起きる。信実はその場を逃れ、盛綱はその後を追ったが、翌日に頼朝より信実を捕らえよと命じられる。しかし盛綱は、信実は既に出家を遂げ逃亡し、親子の縁を切ったと述べる。頼朝が盛綱に対し、祐経に対する謝罪を命じると、既に親子の縁を切った事を理由に謝罪を拒否した。
9月から11月、頼朝に従い上洛し、院への参上や石清水八幡宮への参拝などに随行する。建久2年(1191年)10月1日、奥州と越後国より牛15頭を頼朝に贈る。建久3年(1192年)11月15日、永福寺への参拝に随行する。建久4年(1193年)9月7日には後白河法皇の崩御後に荒廃していた御所の宿直を命じられる。建久5年(1194年)2月2日、北条泰時の元服式に、11月21日には三島大社の神事による笠懸に加わる。
建久6年(1195年)4月10日、東大寺供養の為に上洛した頼朝の参内に従い、この時には兵衛尉に任じられている。5月20日の天王寺参拝にも随行している。
頼朝が没した後の建久10年(1199年)3月22日には、出家しており西念と称する。建仁元年(1201年)4月3日、上野国磯部郷に在り、城資盛・坂額御前の反乱の制圧を命じられる。命令は4月5日に西念の下に届き、越後国鳥坂城に構える城資盛を激戦の末に破った(建仁の乱)。牧氏事件では、元久2年(1205年)閏7月26日京に在った朝雅を討つ軍に加わる。
没年月日は不詳であるが、倉敷市に盛綱のものと伝わる墓が残っている。
写真:沙沙貴神社の楼門
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「京都の安土に佐々木神社があるのだ」→滋賀県の安土に
佐々木神社のある安土桃山に参拝した時→佐々木神社のある安土に参拝(安土は滋賀県、桃山は京都府で、別の場所
2013/10/2(水) 午前 2:26たつや
木庵の反応
<木庵も「京都に安土があったのか」と心のどこかで思ったような気がする。ところが、そのあたりの正しい知識がないため、佐々木さんの記事をそのまま載せた。これは校正する立場の木庵の責任である。桃山はたしかに京都にある。
木庵の友人からの指摘もある。「佐々木神社」ではないのだそうだ。正しくは「沙沙貴神社」 と書く。ウイッキペディアで調べてみても「沙沙貴神社」であった。木庵>
ウイッキペディアの記事
沙沙貴神社(ささきじんじゃ)は滋賀県近江八幡市安土町常楽寺にある神社である。式内社で、旧社格は県社。
少彦名命を主祭神として計四座五柱の神々を祀り、「佐佐木大明神」と総称する。佐佐木源氏の氏神であり、佐々木姓発祥地に鎮座する。
佐々木さんの最新の記事
木庵 先生
今朝先生にメールした後、徹底的にアルバムを捜しましたら出てきました。
1回目の時のと2回目に行った時の両方が出て来ました。写真を主人に見せて「この場所覚えている? 」と尋ねましたが、「行っていない」と言います。ですから、2回とも私1人で行って写真を撮ってきたのだと判明しました。
初めに倉敷に私1人で仕事で行った時期を思い出せませんが、仕事の後、倉敷の町を知る為に観光バスに乗りました。その時バスガイドが、「このバスは通過しませんが、この右手の方に『乗り出し岩』という処があります。そこに佐々木盛綱の墓があります。別の観光バスが通過しますのでご利用下さい」と云うのです。早速その観光バス終点の倉敷駅前で降り、別のルートの『乗り出し岩』を通過するバスに乗り替えて『乗り出し岩』で下車しました。
下車したものの、人は誰もいませんでした。家もないので心細くなりましたが、そこに「源平藤戸合戦史跡・佐々木盛綱」と記された1メートル程の白柱が立っているではありませんか。
しかし、小道の向こうに大きな岩があるだけで何もありません。仕方がないのでお転婆の私は乗り出している大きな大きな岩石を登りました。
何とその大きな石を登って初にお墓を見つけました。そのお墓に花束がささげられているのです。誰がこんな辺鄙な処のお墓に花束を捧げに来て下さるのか???不思議で不思議でたまりませんでした。
どうしても又行きたくなり。2回目今度は倉敷から直接佐々木盛綱墓で下車、「乗り出し岩」の上のお墓に直行しました。そうすると、お年寄りのお婆ちゃまが盛綱の墓の前に屈んで花束を供えているではありませんか。もう吃驚です。
1ヶ月に1回病院に行く時にここを通過するので、必ず花を添えるのだとおしゃるのです。お宅はその細い道を上にいった処にあるとの事でした。
そのお婆ちゃまから「笹無山が次のバス停にあるから必ず立ち寄ってから帰宅するよう」に言われました。言われたように笹無山に行きました。立て札を読んで初に知る先祖盛綱の素行でした。立札は下記の様に書いてありました。
笹 無 山
源氏の武將、佐々木盛綱は対岸の
平氏の陣へ渡る藤戸の海の浅瀬を、一
人の浦人から聞いた。盛綱はせっかく 知り
り得た浅瀬の秘密、味方の武將に教えら
れたてはと、浦人を切る捨て、源平「藤戸合戦」
の功名を」たてたのである。
中略
今日では雑木の笹は生い繁り、
八百年の歳月は老母の妄執を消え
去らせている。
昭和六十年十一月吉日
藤戸史跡保存会
私の祖父母はこの事実を知っていたのかどうか、私にはこの話を一度もしたことが無く、全く知りませんでした。もし二回目にお会いした小林のお婆ちゃまに出会っていなければ、私は知らずにいた事です、偶然出逢った人から知った史実ですが、今思うと、盛綱が私に伝えたいと思って私を誘導したのでしょう。
五〇〇年以上経っていますが、目に見えない世界は確実にあると思える今日此の頃です。
佐々木
追伸 中略にしましたのは少々手が痛くなりました。スミマセン。
必要であれば、明日にでも中間のみメール致します
お早うございます。
(下記は昨日腕が痛くて中略にした部分です)
これを知った浦人の老婆は恨みを晴らす
ことのできぬわが身を嘆き、佐々木と言
えば笹まで憎いと、半狂乱となり、この小
山の笹をむしり取ってしまったという。以
後この小山には老婆の執念が通じたのか
笹が生えることがなかったということか
らこの名がついたのである。
以上が昨日の中略の部分です。
写真を撮ってあったので、其の儘立て札通り忠実に写しました。
木庵の反応
<佐々木さんはどんどん昔のことを思い出されている。倉敷に佐々木信綱の墓があり、そこに佐々木さんは二度もお参りなされている。そのときの老婆との巡り合いも面白い。佐々木信綱のことについて書かれたウイッキペディアの記事がまだ終わっていない。木庵>
鎌倉の御家人
平家滅亡後、源頼朝と弟の源義経との間で対立が深まっており、そうした中の文治元年(1185年)10月24日、頼朝は父である源義朝の供養を行い、盛綱もそれに列している。文治2年(1185年)10月24日、甘縄神社へ参拝した頼朝に随行する。文治4年(1187年)7月10日、源頼家が初めて鎧を着る儀式に加わる。建久元年(1190年)8月15日、頼朝の鶴岡八幡宮参拝に随行する。
同年7月20日、頼朝の邸宅での双六の最中に、盛綱の15歳の息子・信実が工藤祐経の額を石で打ち、流血へと至る事件が起きる。信実はその場を逃れ、盛綱はその後を追ったが、翌日に頼朝より信実を捕らえよと命じられる。しかし盛綱は、信実は既に出家を遂げ逃亡し、親子の縁を切ったと述べる。頼朝が盛綱に対し、祐経に対する謝罪を命じると、既に親子の縁を切った事を理由に謝罪を拒否した。
9月から11月、頼朝に従い上洛し、院への参上や石清水八幡宮への参拝などに随行する。建久2年(1191年)10月1日、奥州と越後国より牛15頭を頼朝に贈る。建久3年(1192年)11月15日、永福寺への参拝に随行する。建久4年(1193年)9月7日には後白河法皇の崩御後に荒廃していた御所の宿直を命じられる。建久5年(1194年)2月2日、北条泰時の元服式に、11月21日には三島大社の神事による笠懸に加わる。
建久6年(1195年)4月10日、東大寺供養の為に上洛した頼朝の参内に従い、この時には兵衛尉に任じられている。5月20日の天王寺参拝にも随行している。
頼朝が没した後の建久10年(1199年)3月22日には、出家しており西念と称する。建仁元年(1201年)4月3日、上野国磯部郷に在り、城資盛・坂額御前の反乱の制圧を命じられる。命令は4月5日に西念の下に届き、越後国鳥坂城に構える城資盛を激戦の末に破った(建仁の乱)。牧氏事件では、元久2年(1205年)閏7月26日京に在った朝雅を討つ軍に加わる。
没年月日は不詳であるが、倉敷市に盛綱のものと伝わる墓が残っている。
写真:沙沙貴神社の楼門
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