September 30, 2007

恵隆之介作、沖縄に軍艦旗ひるがえる、「沖縄」 に尽瘁した漢那憲和少将の献身(4)

 この年十一月、ワシソトンで軍縮会議が開かれ、年が明けた二月、軍縮条約が紆余曲折の末、調印された。
 お召艦艦長の大役を終えた漢那は、大正十年十二月、戦艦「扶桑」の艦長となる。
 翌年春「扶桑」は南西諸島方面での訓練の帰途、沖縄中城湾に寄港した。
 母オトが「扶桑」に呼ばれ、久しぶりに母子が対面した。
 沖縄の人々は、中城湾に浮かぶ巨艦を見て驚き、そしてその艦長が沖縄出身であることに限りない誇りを覚えた。
 一年程して次は「伊勢」艦長をつとめたが、大正十二年十二月、少将に昇進と同時に横須賀防備隊司令に補された。
 これも約一年ほどして大正十三年十二月、軍令部出仕となり、翌年八月、待命となり、十二月に予備役編入となった。このとき、漢那は四十八歳であった。
 軍縮の余波をうけたとはいえ、予備役編入は早過ぎると、誰もが思った。漢那自身も意外だった。
 傷心の彼にとって唯一の慰めは、皇太子殿下がそれをお聞きになられて、「なぜ、漢那がそんなに早く予備役になるのか」と洩らされたことを伝え聞いたことであった。
 この予備役編入については、漢那があまりに剛直で上司にも遠慮なく意見を申し述べ、順応、妥協性に欠けるから、という説もあるが、それよりも、時の海軍大臣財部彪(15期、大将)の薩摩偏重による差別人事だという説が強い。しかし、それを否定する説もある。
 財部の人柄を知るこんな逸話がある。
 下谷永昌寺に弧々の声をあげた嘉納治五郎の講道館柔道は、明治十九年、富士見町に移ってようやく隆盛期に入ろうとしていた。
 この前後、海軍で早くも柔道を学んでいた何人かの人たちがいた。
 中でも、財部彪、広瀬武夫(15期、明治三十七年三月、族順口閉塞隊として「福井丸」で戦死後中佐)、それに少し遅れて湯浅竹次郎(19期、明治三十七年五月、旅順口閉塞隊として「相模丸」で戦死後少佐) は特に熱心であった。
 嘉納の柔道は、従来の柔術を更におし進めて、単なる武術から、修業錬磨による人間形成を目標とした。
 財部たちは、兵学校長有地品之允(期前、中将)、副官八代六郎(8期、大将)に懇願して兵学校教育に柔道をとり入れることに成功した。そして明治二十一年、兵学校が東京築地から江田島に移転したときに、講道館江田島分場の設立を見るにいたった。
 財部、広瀬、湯浅たちは、海軍柔道創設の功労者であった。
 財部は嘉納の人柄に心服し、熱心に柔道を学ぶと同時に心をも鍛えた。
 日清戟争のあと、明治三十一年、日本海軍は先進五カ国に、将来の日本海軍を背負ってたつ少壮士官を留学させることになり、第一に文句なくイギリス行きが決定したのが財部であった。なお、このとき秋山真之(17期、中将)はアメリカ行き、広瀬武夫はロシア行きとなった。
 その少し前、山本権兵衛軍務局長(2期、大将)は、娘イネの結婚相手を探していたが、白羽の矢をたてたのは、当時、常備艦隊の後任参謀をしていた財部であった。
 調べてみると、兵学校は首席卒業だし、そのうえ柔道で鍛えて体も人格も抜群である。一も二もなく惚れ込んで、さっそく財部に申し込んだ。
 すでにその頃、海軍一の実力者といわれていた山本の申し入れであるから、二つ返事で承知すると思ったら、財部はこれを断わろうとした。
 たまたま、同期で親友の広瀬武夫に話したところ、広瀬は、「俺もよした方がよいと思う。俺が断わってきてやる」と言って、強引にも一人で山本邸をたずねた。広瀬は山本に向かって少しも臆する風もなく、「私は、財部は頭脳、人格ともに傑出した男だと思います。放っておいても出世します。しかし、閣下の女婿になると、閣下の女婿だから出世したと言われます。それでは財部の将来に瑕がつきます。ですから、この縁談は破談にして下さい」と言った。
 すると山本は、「成る程、君の言うことは一理ある。しかし、それは私が依估贔屓(えこひいき)するような人間であれば、ということだろう。
 どうか私を信用してほしい。私は公私のけじめはつける。それに、つまらぬ噂を気にするようでは、人間は大成しないぞ」と、逆に説得されてしまった。
 財部は後年、大将になってからも請われて六つの内閣の海軍大臣を勤め、任期は延べ六年五カ月にも及んだ。
 山本権兵衛自身、薩摩出身でありながら大局に立って”薩摩の海軍″を打ちこわすことに苦心したのであり、その志をつぐ財部が、薩摩がどうの沖縄がどうのという片寄った考え方をする人ではなかったともいわれる。
 海軍を退役後、郷党の熱烈な懇請により、漢那は政界への進出を決意し、昭和二年、沖縄から衆議院議員に立候補して当選、以後、当選五回、勤続十年にもおよんだ。五回のうち四回は最高得票であった。
 昭和十二年には、内務政務次官をつとめ、昭和二十年には衆議院議長候補にも擬せられた。
 その間、沖縄については、教育の向上、産業開発、経済振興、さらには沖縄からのハワイ、北米南米等への移民の保護、支援等々、漢那らしい真摯さで数々の実績を示した。
 少しさかのぼるが、昭和七年漢那の東京の家には、沖縄の素封家から行儀見習いの年ごろの娘をあずかることが多かったが、そのころ、千代という娘がいた。
 千代の父は当時ハワイのヒロで病院を開業していた久米島出身の上江洲という医師である。
 漢那は、預かった娘は責任をもって行儀作法、言葉づかいなど、厳格に躾けたという。
 漢那は、彼の二十三年あとに、彼のあとをついで沖縄から兵学校に入校した渡名喜守定(となきしゆてい)(50期、大佐)を我が子のように目をかけていた。
 その渡名喜が海軍大学校に入学したのを機に、漢那は千代との間をとりもち、結婚させた。
 渡名喜について少し詳しく述べると ー
 渡名喜守定は、明治三十五年十二月、沖縄の北部、国頭(くにがみ)村北の字伊地に生まれた。父は染料の藍の生産を業としていたが、家計は貧しかった。
 渡名喜は、小学校のとき、成績はつねに首席であった。しかし貧しいため、中学に進むことを反対されたが、かならず負担をかけないようにするから、という条件で、沖縄一中に入学、約束通り特待生となった。
 そのころ、一家は那覇に移り住んだ。那覇から首里まで路面電車が開通していたが、渡名喜は五年間、一度も乗ったことはなかった。そればかりか、一足の靴を大切にして、ほとんどはだしで通学した。
 服も五年間、一着だけで通し、まさに弊衣破帽であったという。
 このころ、沖縄一中は野球の全盛期に入るころであったが、渡名喜は運動も、派手なつき合いも出来ず、地道に勉強だけしていた。
 英語が好きで、また、水泳は得意であった。
 兵学校への進学を決意したのは四年のころで、動機は、学費がかからないということと、先輩漢那憲和の影響はもちろんだが、当時読んだ浜口鶴雄(40期、大尉)著の「江田島生活」という本に感銘を受けたことによる。特に閉鎖された狭い沖縄だけしか知らない彼にとって、遠洋航海で世界を回るなどということは、何にもまして少年の夢をかきたてるものであった。
 しかし、受験するといっても、どうしてよいか先生に聞いてもわからず、仕方なく自分で規則書を取り寄せて準備をはじめた。
 家が貧しく、受験費用もおぼつかない彼に、教頭が沖縄二中の書記の口を紹介してくれた。
 ここで働いて三カ月分の給料を蓄え、鹿児島で受験するための旅費と、一カ月間の鹿児島滞在の費用をつくることができた。
 大正八年九月、念願の兵学校に入学、五十期生となる。校長は鈴木貫太郎中将(14期、大将)であった。
 大正十一年六月、二百八十名中二十二番の成績で卒業し、夢にまで見た遠洋航海に出た。
 ハワイ、北米海岸、パナマ、ブラジル、アルゼンチン、パラグアイ、大西洋を渡ってケープタウン、ダーバン、インドの各国を回った。
 ところが、幸運なことに三年後、五十三期生の遠洋航海に、今度は指導官付少尉として、豪州、ニュージーランド、南太平洋諸島の各地を訪れることができた。
 第一回の遠航でハワイに寄ったとき、渡名喜はただ一人の沖縄出身だというので、沢山の沖縄出身の人々が盛大な歓迎会を催してくれた。しかし、それに反して、ブラジルに寄港したとき、沖縄出身のブラジル移民の生活は惨めで、ボロの衣服、わら縄の帯にはだしという姿で、沖縄よりもひどい生活であった。
 遠航を終わって艦隊勤務がつづき、大尉に進級、その間、砲術科高等科学生となり、その四年後に海軍大学校を好成績で一回でパスした。最年少の二十九歳であった。 当時の海大の教官に井上成美大佐(37期、大将)がいた。
 井上は難しい戦略の講義など一切せず、学生に推理小説をすすめたり、将棋の木村義雄名人を呼んで話を聞かせたりした。この海大在学中に、漢那の媒酌で千代と結婚したのである。
 海大卒業後は、第一水雷戦隊参謀、「古鷹」砲術長をへて、昭和十一年、オランダに駐在武官室を開設することになり、公使館付武官となって赴任した。
 この狙いは、将来の南方資源の確保、とくにインドシナの石油開発参加であった。
 当時、オランダの対日感情は悪かった。渡名喜は、まずオランダ語を修得することからはじめ、どんなところでも出かけ、できるだけ多くの友人をつくることを心がけた。
 そのころ、オランダ駐在の武官や外交官で、オランダ語を話せる人はなく、彼はオランダ語ができる唯一の外交官、として評判になった。
 昭和十四年末、海軍大臣から、日独伊軍事同盟締結の可否を問う諮問がなされたことがあったが、渡名喜は絶対反対である旨を強く進言した。
 面白いのは、のちに、漢那も日独伊三国同盟賛成者なのを知って、渡名喜がたしなめ、それ以後漢那は考えを改めたという。
 昭和十五年五月、渡名喜は帰国する。
 この時、オランダ政府は彼に、オレンジナッソウ勲三等を与えた。
 オランダでは、現役の中将、大将にも勲四等しか与えられないものを、日本の三十八歳の一中佐に勲三等とは、まさに破格の扱いである。
 のちに知らされたことであるが、その理由は、
 「渡名喜中佐は、ヒトラーとの同盟に絶対反対であった。また彼は、オランダ当局に対し、ヒトラーのオランダ侵略を警告し、オランダはその対応措置をとったために被害を軽微にし得た」からであるということであった。
 渡名喜は帰国後、海南島海軍根拠地隊参謀長となった。太平洋戦争中は、海軍軍令部参謀、南西方面艦隊参謀をへて大本営参謀兼海軍大学校教官になった。
 この時期、渡名喜は広田弘毅や高松宮と相謀り、東條内閣の倒閣運動に走り回った。
 やがて、それが海軍大臣の知るところとなり、呼び出されて警告をうけた。そしてその後は身辺に憲兵がついて監視されるようになった。
 それに嫌気がさし、第一線を希望したところ、福山航空隊司令に補され、ここで終戦を迎えた。 
 同期の寺崎隆治(大佐)は、彼をつぎのように評している。
 「渡名喜は頭もよいが、人格的にもすぐれた人であった。そして情報に明るく、視野が広く、大局的にものを見ることのできる人であった」
(以下次回)


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