September 28, 2007

恵隆之介作、沖縄に軍艦旗ひるがえる、「沖縄」 に尽瘁した漢那憲和少将の献身(3)

 皇太子(昭和天皇)の欧州外遊が決定したのは、大正十年二月のことである。
 これは、皇太子に国際性を身につけて頂くためと、大戦後の欧州各国の復興の事情を学んでいただくため、貞明皇后の理解と、時の宰相原敬および加藤友三郎海相(7期、大将)の政治力によるものであった。
 司令長官に小栗孝三郎中将(15期、大将)、参謀長は田口久盛少将(21期)、御召艦「香取」艦長に漢那憲和大佐、供奉艦「鹿島」艦長に小山武大佐(26期、少将)が決定した。
 漢那は、御召艦艦長という栄誉と重責に感激したが、この機会になんとか皇太子に沖縄を見て頂けないかと考えた。
 彼の熱心な具申により貞明皇后も賛成され、皇太子自身も希望されるようになり、ついに沖縄寄港が決定した。この時の漢那や沖縄人の喜びは大変なものであった。
 三月三日、艦隊は横浜港を出発した。 六日、中城湾に入港投錨する。
 中城湾には県民の努力により、俄か造りの桟橋が紅白の布をもって美しく飾られ、黒山のような群衆が海岸に集まって皇太子を奉迎した。
 与那原駅から那覇駅までは鉄道で、当時、沖縄には自動車がないので、あとは人力車である。
 この人力車の車夫の人選が大変だった。
 沖縄には、車夫は九百名位いたが、二、三カ月前から厳しい選考が行なわれ、その中から玉城という男が選ばれた。 そのほか、車の後押しとして、在郷軍人で金鵄勲章所有者が二名選ばれ、これも二週間前から県庁で合宿訓練が行なわれた。
 当時、沖縄の労働者階級は、三食とも芋食が多く、おならが多いので、途中でおならなどして不敬になってはと、合宿で二週間前から米食に切り替えたりして細心の注意をはらった。
 車夫たちは、礼儀、作法、服装、身だしなみまで厳重な指導をうけた。
 服装は、黒色ハッピにズボン、脚絆に地下足袋、笠はマンジュウ笠、という姿である。
 那覇駅から人力車で県庁へ。
 県庁で殿下は漢那の母オトや、有位有勲者にお言葉を賜わり、また県知事から県政一般について聴かれ、県物産をご覧になって首里へ。
 尚侯爵邸で休憩のうえ、沖縄一中や沖縄師範の生徒の空手演技をご覧になり、みずからカメラに収められたりした。
 人力車の走る沿道は黒山の人で、万歳の歓呼が島中にとどろいた。
 車夫の玉城は、無我夢中で車を曳いたというが、このことで彼は一躍人気者となり、のちに那覇築港の現場監督に抜擢されたという。
 漢那は、このときの感激を、つぎのように書いている。
「余は、青春時代羨望の的であった帝国海軍の将校として、今や郷国の海湾に、我が日本帝国のお若い殿下のお召艦『香取』を浮かべる時機に遭遇しては、感慨の尽きるところを知らなかった。
 しかも、そこには余を少年時代より、か弱き女の手塩をかけて育て上げた余の母が待っていたのである。思えば涙の滂沱たるものがあった」
 皇太子は航海中、午前は歴訪に必要な英語とフランス語の勉強で費やし、午後は甲板でデッキゴルフや、特設プールで泳いだりした。
 皇太子は、スポーツはそれほど得意ではなかったが、デッキゴルフなどで負けても、決して不機嫌になったりすることはなく、いつも上機嫌であったという。
 出航後一カ月程して「鹿島」内でボイラー管の破裂があり、三人の水兵が大火傷を負い、死亡した。
 しかも数日後には、同じ事故が「香取」でも起き、二人の水兵が亡くなった。
 皇太子は、「このような事故の原因は、たとえ間接的ではあるにせよ、自分にあることに心が痛む」と沈うつな面持ちで語られた。 漢那は責任を感じ、恐懼した。
 この「香取」に、柳本という若い分隊長心得がいた。二十年後に、ミッドウェー海戦で「蒼龍」艦長として燃えさかる艦橋にあって壮烈な戦死をとげた柳本柳作(44期、戦死後少将)である。
 「香取」がアラビアの港アデンに寄港したとき、よくある光景だが、現地人の漁船が近寄ってきて、魚を買ってくれ、という。
 柳本中尉は士官室の糧食仕入係も兼ねていたので、そのうちのなるべく大きく綺麗な漁船を選んで烹炊員に魚を買わせた。
 その時、一部始終を甲板でご覧になっていた皇太子が、「あの舟からも買ってやってはどうか」と言われた。
 見ると、十歳くらいの少年が、みすぼらしい小舟を一生懸命漕いでやってくる。
 柳本は、皇太子の普遍の慈悲の心にふれた思いで強い感動に襲われたという。
 皇太子は幼少のころから、かなり厳しい鍛錬をうけられたせいか、航海中もずっと元気で、他の者が船酔いに苦しむことがあっても皇太子のみは平然としておられた。
 艦隊が紅海に入ると猛烈な暑さで、夜など随員のほとんどが眠られなくなり、夜中甲板で涼をとったりしていたが、皇太子だけは船室で、しかも扇風機もつけずに休まれたという。
 日中、暑いときには大変だろうと、わざわざボイラー室を訪れ、兵たちをねぎらったりされたが、そのとき、ボイラー室の室温は摂氏五十度をこしていたという。
 このあと艦隊は、英、仏、ベルギー、オランダ、イタリアの順に五カ国を歴訪し、日本に帰ったのは九月三日であった。
 皇太子が、この外遊で驚かれたことの一つは、英国での王室と国民との関係が極めて打ち解けたものであるということであった。
 公爵夫人と農民が手をとり合ってダンスをするのを見て、「日本の皇室でも、ああいう風に国民に直接ふれる機会があると良いね」と、感想を述べられたという。
 また、スコットランドのアソール公爵が、社会福祉事業に尽力していることを知って、「日本でも、華族たちがアソール公を見習えば、過激思想など持つ者はいなくなるだろう」と洩らされた。
 また、皇太子は弟君の擁仁(やすひと)殿下(秩父宮) に、「初めて人としての自由を知った思いだ」と手紙に書かれたりした。
 フランスでは、第一次大戦の激戦地ベルダンで、戦火に荒廃した様を見、そして飢えた孤児や老女の惨めな様子を見て、「戦争とは、こんなにも悲惨なものか」という感じをもたれたという。
 皇太子が、半年におよぶ欧州旅行でとくに感じられたことは、真に日本にとって自由が如何に大切なものであるか、ということと、戦争の悲惨さ、平和のありがたさであったといわれる。
 おそらく漢那の感想も同じものであったに違いない。
 漢那は、このお召艦艦長の労をねぎらわれ、大正天皇より特に金杯が下賜された。
 皇太子は沖縄訪問をたいへん喜ばれ、外遊の日を記念して、毎年三月三日、当時の関係者を宮中に招いて午餐会を催した。 漢那が毎年、喜んで出席したことは言うまでもない。
(以下、次回)


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